校長先生はいつもの子供相手で相当ストレスがたまっているのだろう。父兄には何かと小難しい話を仕掛けて来る。先日の話題は「人間的欲望と奴隷的欲望」と題されていた。話の切り出しは結構卑近な話題である。「『おいしいものを食べたい』と『おいしくものを食べたい』というのは違います」。なるほど、これらが違うことは良く分かる。「『おいしくものを食べたい』というのは人間的な欲望です。それに対し、『おいしいものを食べたい』というのは奴隷的欲望です」。話ははしょるが、要は主体性の有無が人間的であるか、奴隷的であるかを決めるという話であった。「雑誌に書いてある、おいしいものの店に列をなすのはいかがなものでしょうか?」、というのが結びであった。

 奴隷的とは何とも乱暴な物言いである。本当の奴隷は、おいしいものの前に、腹一杯食べたいと思うのが普通ではなかろうか?。第一、奴隷がおいしい店に行列をなすことなどできるはずがない。主体性の意義を説くには、あまりにも大袈裟な話題であったような気がする。「奴隷的欲望」というのは仏教用語らしい。ほんとかいな?。

 ではこれを他に置き換えてみたら、どうなるだろうか?。「おもしろいコラムを読みたい」と「おもしろくコラムを読みたい」。後者の用例が果たして成り立つのだろうか?。おもしろいかどうかを主体的に判断して読むのであれば、前者も十分人間的だと思う。「おもしろいコラムが書きたい」と「おもしろくコラムを書きたい」。これも微妙に意味が異なる。ただ、今度はいずれでも書く側としては主体性がある。

 「楽しい仕事がしたい」と「楽しく仕事がしたい」。以前、上司がこんな話をしてくれた。「確かにやりたくない仕事をやらなければならないときもある。しかし、自分は好きな仕事をするために、やりたくない仕事もやるようにしている」と。ありがたいお話だ。私自身、何度かこの言葉を思い出してこなしてきた仕事もある。ところがその元上司は今、別の会社に勤めている。よほど楽しい仕事があったのだろうか?。