第173話 ■正月は何故めでたいか?

 本当は年明けにリリースしようと思っていた内容であるが、正しい正月の過し方を伝えたくて、少々前倒ししてのリリースである。「正月は何故めでたいか?」というのが今回のテーマである。テレビから無尽蔵に流れて来る、あるいは届いた年賀状に記されている、「おめでとうございます」という言葉に対して疑問を感じたことはないだろうか?。「正月が何故めでたいか?」、あまり真剣に考えたことがある人は少ないだろう。子供のときの記憶をたどると、そんな疑問とはお構いなしに、いつもよりちょっと良い服を着せられて、お年玉をもらって、「正月はうれしい」という感情だけが刷り込まれていた。まさにめでたい限りである。毎日同じように日は昇るのに「何で初日の出を拝むのか?有り難いのか?」という疑問は、この正月の謎をもっとも顕著に言い換えたものかもしれない。

 私が調べたところによると、正月がめでたいのは農耕社会で新たなサイクルの到来に感謝し、それを祝うことに起因しているらしい。私はサラリーマンで農耕社会のサイクルには無縁であるが、1月で会社の会計年度が新たなサイクルを迎えるということで、素直に感謝して祝うことにしよう。ただ、正月がめでたい状態であるためには多少の演出が必要である。そのためには非日常として扱うことが必要で、それが、民俗学では非日常=「ハレ」(、日常=「ケ」)と表現されている。その行事にめでたさを加味するには非日常の要素を付加することが欠かせない。

 滅多に手紙は書かないけれど、年賀状は書く。いつもは食べないような料理を食べる。こんな非日常的なことは正月を正月らしくする上で非常に正しい行動である。親戚一同でカルタ取りをするのは粋だが、揃ってテレビゲームをするのは野暮である。これからますます私たちの生活が便利になるにつれ、日常と非日常の境が曖昧になっていくのはちょっと悲しい。年賀状も電子メールになり、店のほとんどが元日から営業しているような状態になった場合、すなわち、正月が非日常性を失った場合、正月の存在意義はほとんどなくなってしまっているかもしれない。いっそ、お年玉もなくなってしまえば良いと思ったりするが、そうはいかないだろう。せめては非日常を楽しむことにしよう。コラムもしばし、お休み。