第1780話 ■遊廓跡

 落語に廓噺というのがある。江戸落語の場合、その多くは吉原を舞台としたもので、一部は吉原以外に品川などを舞台にした廓噺というのがある。かつての吉原は公的な廓で、それ以外の場所は非公認な場所とされていた、らしい。吉原は遊女三千人御免の場所、とあって、女郎が3,000人いて、そこを目指して日々多くの男が現れたとある。江戸の街は圧倒的に男性が多い社会とあって、一方で吉原などの今で言う性産業の場である廓がこのバランスの調整役として、機能していたのかもしれない。

 さて、私の出身は佐賀市で、家は市内の中心部からは2キロぐらいのところにあった。江戸時代は城下町で、お城までは約1キロといったところの、城下町の入り口に近いところで生まれ育った。その家のすぐ近くには、かつての遊廓の跡があって、その実態は知らないまでも、「ゆうかく」という言葉は子供の頃から何気に聞いていた。住所地番ももちろんあるが、周りの大人達はその地域をずっと、遊郭とか、「元、遊郭があったところ」と呼んでおり、それで通じていた。

 おそらく、江戸時代からそこは存在し、昭和33年の売春禁止法の施行まで、そこは遊廓として栄えていたことだろう。今はすっかりその跡形も無いが、かつて私が子供の頃には遊廓の建物がそのままいくつも残って、一角を成していた。遊廓としての後は、住居として使用されており、各座敷に一家族といった感じで、数世帯が文字通り、同じ屋根の下に住んでいた。共同トイレで、風呂はなく、ここに住んでいる人達とは近くの銭湯でよく会った。家賃が実際にいくら位だったかは分からないが、貧しい感じの住まいだった。

 外側は格子になっていて、その格子越しに当時は顔見せをして、相手を見立てる場所だったのだろう。その建物に、友達の友達が住んでいて、何度か建物の中に入ったことがある。重厚で立派な建物であるが、既に掃除や手入れはいい加減で、所々が傷んでいたが、修復する気もなく、放置された感じだった。妙に幅が広く、立派な階段が印象的で、廊下は日中でも暗かった。

 その集合住宅として使用されていた当時、いったい誰がその建物の所有者だったのだろうか?。建てられてから随分時間が経っているし、その建物を修繕しながら維持していく程の家賃収入があるとも思えない。老朽化がひどく、安全性の問題もあったのだろう。数年前に帰省した時に、その場所を見に行ったら、既にそれらの建物は取り壊され、いくつかの低層アパートに建て替わっていた。

 教育的ではないが、文化的には残して欲しいものだった、と今更ながら思う。Webで誰か、この佐賀市の遊郭跡について書いていないかと探してみたが、見つからなかった。ちょっと研究心が騒ぐ。

(秀)