第1805話 ■上から目線で手が止まる

 自分自身、文章を書くことにおいて、大きな迷いが生じている。私のコラムが途絶えた理由はそれである。コラムだけでなく、ブログも書けていない状況である。いや、書いてはみるものの、リリースをためらってお蔵入りさせているものがいくつもある。

 「自分は評論家になっていないか?」という自問がある。これまで自分が書いてきた文章を読み返してみる。懐かしネタは良いとして、次いで政治や社会の事件に対して自らの意見を書いた文章が多いようだ。その多くは批判的な論調がほとんどである。まあ、その視点がある種特徴的でそれ故に支持されたこともあったりしたが、今風に言うといずれも「上から目線である」

 例えば政治家に対する批判、若手落語家の芸に対する苦言。その一方でそんなことを言う自分は何者だ?、という疑問が生じた。例え評価に値せず、苦言を呈したい政治家がいたとしても、彼らは選挙によって選挙民に選ばれた事実がある。自分にもそれができるかと言われても、できるはずもない。若手の噺家についてもそうだ。名人上手と言われた師匠たちと比べて、まだ芸が稚拙なのは当然のことである。それを捕まえて得意顔で意見したところで、自分が彼らよりも上手く話せるわけもない。それなのに何を根拠に上から意見を述べているのか?

 テレビのニュース番組がニュースショー化し、ワイドショーなんかにもコメンテーターというのが登場する。大学の先生や記者ならまだしも、その分野において何の深い知識を持っていない芸能人が評論家めいたコメントを吐く。その影響なのか、街頭インタビューで一般の人々もしたり顔でコメントを言う。まるで全国民が評論家ぶっているようだ。

 妻の話につき合わされる夫の苦悩というのがある。適当に聞いていると、「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」なんて言われる。聞いたところで、どうでも良いような話ばっかりである。話すことでストレスを解消しようとしているだけでしかない。そんな中に芸能情報や政治ネタが登場してきて、評論家みたいなことを言ってくることがある。途端に聞かされていることがこちらにはストレスとなり、耳をふさぎたくなる。

 最近若い連中が経験もないのに「上から目線」で、もの言いをする、なんて話がある。「一体、何様のつもり?」、「その自信は何?」。言っている本人にその意識があるのかどうか分からないが、私にはそれらが無意識のうちに行われているような気がする。彼らが小さいときから、テレビでコメンテーターがコメントを吐くことを日常的に見てきた。また、インターネットの普及で個々人がサイトやブログ、メルマガで自由に意見を発することができるような環境下で育った影響が多いのではなかろうか。

 テレビのコメンテーターには辟易しながらも、インターネット環境で意見を発信することを私は続けてきた。それを楽しんでさえきた。そしてここにきてそれが自分が最も嫌ってきた評論家と同じ立場からの目線になっていることに気がついて、手を止めてしまった。批判するだけでは何も生まれてこない。批判するだけでは、ただ世の中が暗くなるばかりである。

 そう言っている、この文章すら既に批判的であり、上から目線である。悩みの根は相当深い。

(秀)