第1839話 ■日峯さんと佐賀新聞

 大学生の時に、教授の手伝いでアルバイトをしたことがある。地元の新聞である「佐賀新聞」のバックナンバーが35ミリのフィルムに複写して保管されているので、それを紙に印刷する作業だった。教授から借用書を預かり、新聞社に出向いてフィルムを借り受け、大学の印刷室みたいなところにこもって、ひたすらコピーを取るように、フィルムの内容を紙に出力していく単純作業だ。当時の佐賀新聞社は現在の位置に移転する前で、玉屋のそばにあった。

 フィルムを機械にセットして、位置を確認して、ボタンを押せばプリンターから紙面が印刷されて出てくる。フィルムはモノクロでネガだったと思う。だから、画面で見ている限りは、全体が黒で文字などが白抜きで見えている。紙になって、ようやく読みやすくなるといった具合だ。ちなみにその時のフィルムを紙に印刷する特殊なコピー機のような機械はキヤノン製だった。トナー方式のレザープリンターだったなんて気が付くのは、後年のこと。

 その作業で気が付いたこと。当時(その新聞が発行された当時)、と言いながら、それがいつ頃だったのかよく覚えていない。大正から昭和初期でなかったかと思う。今でも朝刊しかない新聞だが、その頃は日刊ではなく、隔日刊で週に3日ほどの発行であった。ページ数も両面で2ページだったような気がする(このあたりの記憶は実に曖昧)。それがやがて日刊になり、ページ数も増えていった。逆によく覚えていること。少ないながらの広告の中に「ライオン歯磨」の広告が何度となく出ていて、リアルなライオンの絵が添えられていた。

 そして、つまみ読み(つまみ食い、からのたとえ)していて驚いた記事。日峯さんの期間中は新聞が休刊になっていた。その旨が、新聞休刊のお知らせとして、紙面に載っていたのだ。「日峯さん」が何か分からない、佐賀以外の方へ。「にっぽうさん」と読む。そもそもは肥前佐賀藩の藩祖と言われる鍋島直茂公の諡(おくりな)である。市内の中心にある松原神社に祀られ、春と秋にお祭りが行われ、今でもその祭り自体を「日峯さん」と呼んで親しんでいる。逆に、祭り自体をそう呼ぶだけで、そもそものその背景などを知っている人は、今となっては少ないと思われる。

 自分の親から聞いた話では、かつての日峯さんは相当の賑わいを見せていたようで、今とは比較にならない程だったらしい。そして、新聞が休刊だったその当時は、さらに賑わっていたことが予想され、それだから街も浮かれて、地元の新聞も仕事を休んでまで盛り上がっていたのか、と思っていた。しかし、実際はそういう理由ではなかった。当時の佐賀新聞社は松原神社の近くにあった。新聞の集配を車で行うにしても、日峯さんのあまりもの賑わいで、この祭り期間は車が立ち入りできない程の混雑だったため、敢えてこのときは新聞を休むことにしたらしい。車と言っても、自動車ではなく、文字通りの「車」で、リヤカーや大八車のようなものだったと思われる。

 渋谷のスクランブル交差点の地に初めて立った時、「今日はお祭りでもやってるの?」と思った。まさにそんなところを大八車で横断して行くような感じだったのだろうか?。

(秀)