第1896話 ■居場所が欲しい人々

 「駄菓子屋を保護しろ!」とまでは言わないが、子どもたちの笑い声が響くような場所はやはり必要だと思う。そんなかつては駄菓子屋に集まっていた子どもたちは今どこに行ったのだろうか?。たまに午後、マクドナルドに出掛けたりすると、数人の子ども達がたむろしていることがある。逆にこういう店では彼らの声はうるさくてふさわしくない。

 別に彼らは間食したいわけでもなく、ジュースが飲みたいわけでもなく、多分居場所が欲しいんだと思う。もちろん、多少店での注文はしているが、紛れて何も買っていなかったり、別で買ったペットボトルをこっそり持ち込んだりの輩もいた。かつては店の奥の方を陣取ってカードゲームをしている姿をよく目撃したが、最近はスマホを片手にゲームをしている。黙々というわけでなく、会話をしながら、ある者は実況しながらという感じ。これってやっぱりどこかおかしい、尋常な光景とは到底言い難い。

 話変わって、スタバの話。都会のスタバは駅の近くなどにあり、生活の動線内に配置されている。別にスタバを目指して行くのではなく、スタバに「寄る」と言った感覚。一方、田舎にあるスタバの多くは、ショッピングモール内か、郊外にある。いずれも駅を利用するような生活スタイルでないことが多い。郊外の店の場合はそこを目指して車などで向かう。スタバに「行く」、である。

 スタバのブランド力というのがどうも難解で私にはよくわからない。確かに以前は店や店員に品があった。高い金を払うに見合ったバリューがそこにはあった。しかし、店が増えるにつれ、スタバの有り難みは次第に薄れ、店員の資質も一般化してしまっている。それなのに、店はいつも混んでいる。そしてレジでは並ばされ、品出しまでにまた並ばされる。それでいてセルフサービス。

 ある人は「スタバには空間を買いに来ている」と言う。かつて、空間プロデューサーなる、胡散臭い肩書の人がいたなあ。あの人達はどこに行ってしまったんだろうか?。確かにスタバにはカードゲームやスマホゲームをやりに来ている子どもたちはいない。また、最近マックに多い、井戸端会議の老婦人たちもいない。

 別にスタバだけに限らず、マックだろうと居場所が欲しいんだろうな、と思う。格好つけると「空間」というのかもしれない。かつての少年たちはそれが駄菓子屋だったのだろう。スタバのコーヒーが特別旨いわけではないけど、多少高くても良いや、という余裕がきっと大切なのだと思う。ただ、もはやスタバがその最適解とは思えないけど。

(秀)