第1915話 ■「いいね!」の心構え

 SNS、特にFacebookのせいで、「いいね!」の質が変化してしまった。そもそも「いいね!」っていうのは、ひとり言か、極限られた会話の中で発せられる言葉であったはずだが、ボタン一つクリックするだけの気軽さで、そんなかつてのひとり言がネットの中でで広まって、周囲の友人他諸々にも知られることになった。気軽さは変わらないが、その影響範囲が大きく変化した。

 Facebookの場合、基本的に自分の友達や自分が指定している媒体やグループの投稿が自分のタイムライン(正しくはフィード)に表示される。友達の近況を知るには便利だが、そこに「いいね!」と反応すると、その内容が、自分が「いいね!」したということで、私の友達のタイムライン(フィード)に表示される。最初の友達と私を介してそのコンテンツを目にした友達とは、面識がない場合も多々ある。

 私は、最初の友達の様子に対して、「いいね!」と返したいだけで、「いいね!」のボタンを押している。別にこの反応を、自分の友達に知らせたいわけでなく、もし知らせたいなら「シェア」すれば良いだけのこと。ひとり言の「いいね!」と、友達に知らせたいことの間には、大きな差があるはずだが、結果としてはほぼ同等に反映されている。当事者間では意味があるであろう、このやり取りも周囲の者にはどうでも良いことの場合が多い。

 今でさえ自分のタイムライン(フィード)での情報が多すぎて、なかなか見切れていないのに、友達たくさんの人はどうしているのだろうか?。そんな友達の「いいね!」を見せられていては、膨大な量になっているに違いない。どうでも良い、直接影響のない「いいね!」の洪水状態ではなかろうか?。最近は当人がオリジナルで発言した投稿よりも、他人やメディアの投稿に反応した投稿が増えた。元の投稿まで確認してみるのは結構面倒だったりする。

 「いいね!」は確かに投稿者のモチベーションにつながる。そして、投稿の内容はさておき、「いいね!」の数に執着している人もいるはず。あるメディアではそのような人々を「いいね!乞食」と表現していた。辛辣だが、意味はよく分かる。

 そもそも「いいね!」をひとり言や極限られた範囲で発する言葉とすれば、その場限りの、結構気軽な言葉だったはず。加えて、「いいね!」よりも、「いいねえ~!」の方が、私が吐き出すひとり言のニュアンスには近いし、誰かに知らせたいと思うようなことではない場合の方が多い。このあたりの感じをうまくSNSには反映して欲しいと思う。ただでさえ情報過多の昨今、「いいね!」のボタンを押す前に、他の人に知らせる必要がある内容なのかを考えるようになった。せめてもの罪滅ぼしに、「いいねえ~!」と心のなかでつぶやきながら。

(秀)