第1919話 ■話し言葉の延長とシェア

 著作権に関する問題はキュレーションメディアに限ったことではない。個人のサイトなどとなると、もっと違法なことが大量に行われている。文字の不正引用もさることながら、画像や動画の権利侵害も多い。また、引用する場合は、出典の明示はもちろんだが、構成上の主従関係にも配慮し、自分のコンテンツが必ず主とならなければならない。ただ、引用した元のコンテンツが一次情報でなかったり、適正な権利を持った素材かは確認できないことが多く、結果として適性でないコンテンツを孫引きしているケースもあったりする。

 中国でのキャラクター等の模倣ぶりを笑ったり(あまりにも粗雑だからのせいもあるが)、怒ったりするが、我々もそれほど立派なものではない。とりあえず社外に出ることのない、社内資料で使用されている画像などの素材が違法なものだったりしているのではなかろうか?。文章についても然り、どこかのサイトから失敬した状態を出典も書かずに「引用」しているのではないかな?。他人のものをさも自分のものの様に装っていたりしないか?。そのくせ、某スポーツ大会のエンブレム問題など、金をもらって不正をしている(らしい)ことへの攻撃は凄まじい。

 基本的に著作権等に対する、それを利用する側の感覚は現状こんなもんだと思う。それは多分、話し言葉の延長としての書き言葉の位置づけがあるからではないかと私は考える。話し言葉は正確性よりも伝わることが重要で、しかも基本的には発したと同時に消滅してしまう。引用なんて感覚も無ければ、画像などもなく、ただそれだけ。ここに昨今は手軽に書き言葉が加わった。かつては文章を書くなんて、それを職業にしているか、作文ぐらいだっただろうが、メールとかSNSで書き言葉が増えた。LINEなんてまさにそんな感じだ。話している言葉よりも、書き言葉の文字数が多い人が増えた。

 加えて、そこにいる人にしか伝わらなかったものが、文字を介することで、多くの人に伝わるようになった。しかもデジタルだから、劣化なくコピーできる。全てにおいてその影響範囲が大きくなった。しかし、それらを利用している側のリテラシーは話し言葉のときのものからあまり成長していない。そんなことなど学校で学ばず、社会に出た。いや、当時は今とは状況が違い、そんな教育など必要なかった。

 SNSなどでのシェアというのは、著作権的に見た場合、そのほとんどが自分の文章と引用元とのバランスにおいて、引用における適正な主従関係の体をなしていない。話し言葉だけでなく、SNSというツールで新たな著作権侵害のタネを無意識の中で広範に我々は抱え込んでしまっているが、そんな感覚などない人が多いだろう。そんな環境の中で、キュレーションサイト騒ぎは起きたに違いない。ある人物によって意図的に起こされたものでも、周囲の感覚も鈍かったから、それを止めることができなかったのだろう。

(秀)