第1940話 ■学歴偏重と労働市場のギャップ

 小中学校の時代の自分を軸に考えると、それからしばらくの間、私は「洗脳」を受けていたと言わざるを得ない。なまじ進学校の高校に入学したため、周りにはストイックなまでに、勉強をしている人が多かった。学校の先生は私達を煽って競わせ、それで全体的な成績が向上することが、学校や彼らの評価へとつながっていたわけだ。

 当時はまだしょうがなかったかもしれない。「勉強すれば、良い大学に入れる」、「良い大学に入れれば(を卒業できたら)、良い会社に就職できる」という考えは、その時点ではまだ生きていたから。ただ、それで人生がそのまま定年まで過ぎれば良いかもしれないが、私達の世代のちょっと上くらいから、終身雇用制度はほぼ崩れた。会社もそうなら、働き手の意識も変わった。私達の世代はこのような変化をリアルに肌で感じている。

 あいにく、私達の親世代はこのような変化をほとんど知らない。そして、先生たちもその環境から、リアルにこの変化を感じ取ることなど難しいと思われる。だから教育現場ではまだ以前と同じように、幻想のための競争心を煽っているのかも知れない。そして悲しいことに、リアルにこの変化を知っているはずの私達の世代がいまだに自分の子供が、「どこどこの学校に受かった」、「どこどこの学校に通っている」、と自慢気に言う。

 記憶する教科・科目、あるいは計算なんて、逆立ちしてもコンピュータには敵いっこない。それらを正しく使いこなせる能力の方がはるかに重宝される。いくら身体能力を高めて速く走れるようになるよりも、車の運転免許を持っていた方が、役に立つ。学習能力も速く走ることも、本当に世界のトップレベルくらいに突き抜けるなら良いだろうが、そうでない多くの人は、コンピュータを使って、自動車を運転した方が良い。

 学校で学んだことなど、社会(あるいは会社)ではあまり役に立たない、ということは多くの大人が知っている。けれど、それを自分の子供達に正しく伝えられない大人が多い。私はちゃんと自分の子供達には伝えている。学校での三者面談の場でも先生に向かって、私はそう宣言している。相手は若干ひるむ。例えば、そのことを知っているよりも、そのことにもっと詳しく知っている人を知っていることが実社会では役に立つ。

 会社が高学歴な人を選ぶ理由、それは採用にあたって適正に人を見る目がないからだ。受験を乗り切ったことを評価して、頑張りが利くと予想しているのかもしれない。労働環境の変化に対して、教育の現場や親たちのマインドの変化が追いついていない。学歴主義に変わるような明確なものさしがないから依然として古い価値観が亡霊のまま跋扈している。

 今回の話題の続きは、またいずれ。

(秀)