第1948話 ■痛勤電車

 私の自宅からは常磐線緩行線の車両が見える。高架になっていて、朝夕には数分と空けない感じで頻繁に電車が通って行く。その距離、百メートルはないくらいで、車両内の混雑具合が人影の様子で分かる感じだ。台風の日など、ここからちょっと先の江戸川の鉄橋で強風に晒されるので、電車が止まったり、妙にゆっくりと走っているときもある。だからそんな日はテレビでやっている電車の運行情報を見ながら、その線路の部分を見ている。

 部屋の中からこんな感じで見えているのだから、電車の方からもこちらの室内が見えているのかと思ったら、危惧したほどのことはなく、明るさの関係もあって、部屋の中は見えていない。むしろ、電車の方から見ると思ったよりも遠くに感じ、誰も通りにあるひとつの小さな家のことなど全く気にしていない。

 私がかつて通勤に利用していたのは常磐線の快速電車の方で、こちらは緩行線の下の部分を通っている。線路が2階建てになっていて、こちらからでは階下の壁は遮蔽されていて、トンネルの様になっている箇所であるため、走る電車の様子はほとんど見えない。

 かつてこのような電車に乗って、勤務地までの往復を繰り返してきた。月にこれだけで50時間を費やしている。年に直すと600時間、24時間で割ると25日になる。寝る時間や休日などを調整せず、単純に年のうちの約一月は、通勤の移動時間だけで使ってしまっている。自分が勤め人だった期間を思うと、約2年間を通勤に費やしていたようだ。

 朝だろうが夕方だろうが、多くの乗客は疲れた顔をしている。日本の電車の中が静かなのは、このような疲れた人々が多数乗り合わせているせいなのだろう。だから、電車移動が日常でない、ご婦人たちが乗り合わせてきて、そこから聞こえてくる声を不快に感じることがある。

 自室の窓から電車を眺め、通勤がなくなった自分の状況から、あるときはエールを送り、あるときは同情し、またあるときは安堵する。「働き方改革」のテーマの1つに是非この通勤問題を挙げて欲しい。

(秀)