第1991話 ■寅さん映画の寸止め感

 松戸市に住むようになって、映画「男はつらいよ」に対する親しみ、鑑賞の仕方が大きく変わった。映画の舞台となった柴又の川を挟んで向かい側に住んでいる。多くの人は柴又駅から帝釈天を目指して歩いていくと思われるが、私は江戸川河川敷の駐車場に車を止め、矢切の渡しの横から帝釈天の裏手へと向かう。初めての人を案内するには適していない。

 ここ、あるいはこの近くに住むようになって二十余年になるが、それを機に柴又に実際に行くようになったし、「男はつらいよ」の映画も好きになった。現地のロケーションが分かるとより一層楽しめる。既に渥美清氏は亡くなっていたために、実際のロケ見物ができなかったことが残念でならない。しかし映画で見た場所を実際に今も身近に見に行けることは嬉しい。

 寅さん映画の基調は「寸止め感」だと私は思っている。いつも恋は不成就に終わる。そしてそれが見る側の安心感につながっていたりする。今度こそはうまくいくのかな?、なんて考える以上に、きっと今回も振られるんだと考えがち。そして必ずその様になる。

 寅さんの失恋を見て思うこと。数とか慣れと言われるとそれまでだが、失恋のショックがそれほど大きくない。身悶えるような感情まではなく、あっさりと身を引いてしまう。そこをしつこくしないことが山田監督の手法なのだろうが、むしろここに私は寸止め感を感じてしまう。むしろ、甥の満男の方が恋に熱い。だから一層切ない。

 きっと40数回も本気の恋で失恋をしていたら身が持たない。きっとそれは映画の主たるテーマではなく、ストーリーに幅を持たせる程度の位置づけなのかもしれない。いつもスッキリしたような、しないような、そんな寸止め感を持ったまま、いつも「終」のマークを見ている。若い時には分からなかった感覚。

(秀)