第257話 ■17才

 「もう、いい加減にしてくれ!」。あの残虐な事件自体に対してもそうだが、マスコミの報道ぶりも異様としか言いようがない。民放は揃って容疑者の育った環境や犯行に至った、背景や動機の追求に血眼になっている。それでも、相変わらず残虐な少年犯罪は後を絶たない。「社会が悪い」、そう一刀するのは簡単である。「いったい、彼らに何が起きているのでしょうか?」と、こんな言い回しは筑紫哲也氏あたりがいかにも使いそうなフレーズであるが、結局のところ、マスコミは社会に対し何の解決策も提示出来ていない。

 私が今回腹を立てているのは、単なる覗き見趣味でしかないものを、さも正義漢ぶってマスコミが事件を報道することである。今回起きた2つの残虐事件の犯人が同じ17才というだけで、マスコミはいろいろと共通点探しを行っている。「彼らが生まれた’83年は…」といった具合にその年の田中角栄の有罪判決まで取り上げるし、確かに少年は二人ともゲームが好きだったらしいが、それがファミコンと同じ年に誕生したこととは何の関係もない。いろいろと共通点を探りだすのは勝手だが、それを事件の背景や動機とするには飛躍があり過ぎるし、そんな共通点を持つ少年など数限りなく存在するはずである。かつての魔女狩りと同じようなことが行われることにもなりかねない。犯罪を犯す少年達は何よりも画一化に反発を抱いているはずで、そんな彼らの共通点を並べて画一化する事でどんな答を出そうというのか?。

 ゲストコメンテータが思い付きで話すことはもちろん、専門家と称して出て来る輩も有効な処方箋を提示するでもなく、そして、何も分からないまま、時間の経過と次の事件によって、事件の風化は繰り返されて行く。もちろん少年達の犯行は許されるものではないが。「17才」の共通点。それは南沙織と森高千里。こんな穏やかな時代が懐かしい。