第34話 ■ドラマの見方

 大学まで田舎で生活していたため、テレビでドラマを見ていていろいろと不思議に思うことがある。場所や舞台の所在地が分からないので、そこに込められた暗黙の設定など分かるはずもない。例えば、「金曜日の妻たちへ」に出てきた、たまプラーザというのがどういう街で、そこを走る田園都市線がどこにつながり、沿線がどんな街かも分からないのである。たまプラーザというのは単にロケーションの情報でおさまるものではなく、ある程度の生活レベルや年収までも記号化した設定のはずだ。だから、同じドラマを見たにしても首都圏に住んでいる人とずっと田舎住まいの人とでは、ドラマの理解度が、はなから違うということになる。

 同様の話は映画にも存在する。洋画となると本当に制作サイドの主張を全て読み切れているかとしばしば思う。いくら戸田奈津子さんの翻訳が素晴らしかろうと、画面を見たところでそれを知りうることは困難である。まずはロケーションである。位置にまつわる地理的な情報以外に、それには治安や経済状況、文化を前提として設定されているかもしれない。次に、役者が喋るイントネーションやスラング。その中に演出として、身分や教養に関する情報が込められているかもしれない。字幕では理解が困難なことである。それに、人種や宗教などまで付加されてしまえば、ほとんどの日本人にはお手上げのはずである。

 話を元に戻そう。国内のドラマでもカルチャーギャップは存在する。学園ドラマ、とりわけ高校ものに見られる。朝の登校シーンで生徒が徒歩で通学してくるのが、私には不思議でたまらなかった。彼らが、近くまで電車やバスで来ているとは思いもよらないからだ。田舎の主要な交通機関は自転車である。朝、「おはよう」など、笑顔で交わしている余裕などない。ひたすら自転車をこぎ、校門を目指す無口な集団の姿があるだけである。