第42話 ■タイムマシン

 高校の退屈な午後の授業中に「タイムマシンの可能性」について考えたことがある。授業の内容とは全く関係ないけど。その結論は「タイムマシンはできない」。単純だが極めて論理的な理由がある。まず、自分がタイムマシンを手に入れたとすると、どうしたいかを考えた。やはり、未来を見てみたい。そして過去も見てみたい。具体的には幕末頃に出向き、ちょっと洒落たことでもしてみたい、と思った。これで証明のための材料集めは十分である。仮にこれから1万年後にタイムマシンができたとしよう。別にこれは1000年後でも来年でも構わない。そしたら、そのタイムマシンで過去にも行くだろう。しかし、これまでの歴史でその様な記録は存在しない。よって、タイムマシンを作ることは無理なのである。すると必ず変なことを言い出す人がいる。「過去には行けないけど、未来には行けるんだ」とか「過去に現れてもタイムパラドクスが生じるから、その時代に痕跡を残さないようにしている」とか「UFOは未来人のタイムマシンだ」などとね。

 時間を超越することは科学的に無理らしい。ただ、時間の進行を加減することは論理的に可能らしい。時間は相対的な存在である。時間は原子の振動数によって規定されている。重力が大きければ原子の振動が緩慢になり、万物は原子で構成されているから、結果時間がゆっくりと流れることになる。高速(高速道路ではない)での移動中も時間はゆっくり流れるらしい。ただ地上の生活で重力の差異や高速移動による時間の差を実感することは極めて困難、まず無理である。その期待は宇宙空間が対象になる。

 タイムマシンは無理だが時間の進行の差を利用したタイムトラベルの可能性は存在する。ちょうど浦島太郎のようなことだ。自分だけ時間の進行の緩やかな世界で生活し、元に戻った時にかなりの時間が経っていたという話だ。子供向けの話としてはかなり科学的で高尚な話なのである。それを理解して作ったかはもちろん疑問であるが。原作の「御伽草子」の中では、浦島太郎は歳を取った後に鶴になって飛び去っていくことになっている。私にとっての1番の疑問は乙姫様が何故彼に玉手箱を渡したかである。愛の裏返し。女性の恐さなのだろうか。

(秀)