第1869話 ■算盤が立たない呪縛

 私の友人に算盤塾の先生(女性)がいる。時間軸としては、同級生が算盤の先生になったというのが正しい。案の上、アナログな人で、デジタル関係はあまり得意ではないらしい。私にとって算盤の師匠と言えば、トニー谷だけだったが、最近新たなこの算盤先生が谷師匠に肩を並べた。たまたま用があって、その算盤塾の場に行ってみたが、「(ご破算で)願いましては~」というのはやっていなかった。皆、ドリルのような問題集を黙々とやっていた。

 このコラムでも何度か使ったことのある言葉であるが、「算盤が立つ」という言葉を知っているかと、算盤先生に聞いてみた。すると、「算盤に立てる」という言葉ならある、と意外な答が返ってきた。「割り算の答を算盤に入れる」という意味らしい。しかもそれは、割り算の時のみに使い、掛け算や加減算の時には使用しないということだった。

 私たちは小学校で算盤を習った。加減算が3年生の時で、掛け算と割り算が4年生以上だったような気がする。自分の子どもたちには、算盤を買ってやった記憶が無いので、ゆとり教育とかのタイミングで、学校で算盤を教えなくなったのかも知れない。当時から私は、「電卓あるから、算盤なんて」という気持ちがあって、あまり真剣ではなかった。算盤を買うにあたっては、学校が斡旋して販売しているものの中から、最低価格のものを買った。もちろん、学校で数回使っただけで何処かへ行ってしまった。

 それから十余年の時を経て、何の因果か、私は電卓も販売しているOA系の販売会社に就職した。日常的な計算は電卓ばっかりなのだから、「算盤が立つ」なんてリアル感の欠片もない言葉を使うくらいなら、電卓を使った言葉で表現できないものか。ただ、世の多くの電卓はバランスが悪いものばっかりで、一切立ちやしない。

 私が「算盤が立つ」という言葉を使用するにあたっての意味は、計算が合う、算段がつく、資金繰りの目処が立つ、といった意味だ。欲しいものが買いたいときに、買えるかどうかを試算して、OKならば、「算盤が立つ(った)」だ。目下、算盤は寝てばかり。これまで算盤を疎かにし、デジタルに走った呪いかも知れない。算盤先生助けて~。

(秀)