当時のランボルギーニカウンタックの人気と言えば、ポケモンで言えばピカチュウのごとき、まさに一人勝ち状態であった。不思議と両方とも黄色い(別の色のカウンタックももちろんあるが)。2,200万円という値段に対し、「今から無駄遣いせずに小遣いを貯金すれば買えるかな?」と尋ねてくる友達がいたが、「カウンタックは無理だろうけど、ロータスかポルシェなら買えるかもね」と答えておいた。自分としては2,200万円の実車よりも2,200円のプラモの方が現実的で、関心はそっちに向いていた。それからもう20年以上経つが、その友達がカウンタックはおろか、ロータスやポルシェを買ったという話はもちろん聞こえてこない。
時は’77年。スーパーカーブームはピンクレディー旋風と時期を同じくして僕らの前に突然現れた。しかし、田舎暮らしの少年の前にそうそうそんな車は現れてはくれない。そんなとき、スーパーカーショーが僕等の街にもやって来た。会場には約10台の、それこそ雑誌でしか見ることのできない車が並んでいる。ただ各車の周りにはロープが張られ、係員が立ち、触ることや運転席の様子を見ることはできない。やはりカウンタックの周りが一番人が多かった。「イオタ」も展示されていたが、イオタには何かと謎が多く、「4台しか生産されておらず、うち2台は事故で廃車になった」という説を少年は信じていた。世の中にあまたあるイオタは「ミウラ」の改造車と言われていた。
消しゴム、カード、メンコ。それに雑誌や写真集。エンジン音のレコードなんてのもあった。ところであのブームの仕掛け人は一体誰だったのだろうか?かつて、アメリカのゴールドラッシュのとき、最も得をしたのはリーバイスだったという逸話がある。ブームの当事者やその渦中にいるよりはその周辺にいた方が儲かるという実例である。車を買えるはずもない子供を煽って一体誰が得をしたのだろうか?。田宮模型か?。だっからミニ四駆の方がよっぽど儲かったような気がする。謎のブームだった。そんなブームもいつの間にか時速300キロの高速で僕らの前を駆け抜けて行った。