とても痛ましい事件(文京区音羽の女児殺人事件)であったが、世間の関心はその背景となったと思われる「お受験」の実像を覗き見ることに集中した。何となく予想は出来ていたが、お受験の実態はその予想を軽く上回っていた。倍率が100倍にも達するようなことは、普通の人生ではそうそう体験できるものではない。彼らの最終的な目的は何であろうか?。いつの間にか手段である受験が目的に置き代わってしまってはいないだろうか。
社員の採用で出身大学を不問とする会社が僅かながらであるが、最近は増えて来ているらしい。それは喜ばしい限りであるが、社会全体は相変わらず学歴偏重社会である。しかし、そんな会社の人事担当者の弁が分からなくもない。良く言えば、「受験競争を勝ち抜いて来たことは、それが能力の証明であり、これからも競争を勝ち抜いていくことだろう」と。人物本意の採用と言っても、わずか数回、数十分話したぐらいで人間の本質が分かるものではない。要は見合いであるが、付き合ってから決めるわけにはいかないし、候補者が他にもいるわけで、選択肢として履歴書に頼るのは当然のことだろう。この枠組みが一旦作られると、人がそこを目指して集中し、システムとして再生産されるようになり、そして、今日に至った。
声高に学歴社会を批判することは簡単であるが、所詮ドン・キホーテでしかない。学歴社会は人をブランド化する社会である。ブランドというのは自分の価値基準ではなく、多くの人が認めた価値基準をお手軽に金で買おうというものだ。このため、他人の価値観を気にしすぎるブランド信仰が続いている限り、学歴社会を是正するのは難しいような気がする。お受験に走るあのマダム達のブランド品を見る度に辟易するし、街中そんな予備軍達であふれている。せめては、ブランドのバックを持った勉強嫌いのコギャルこそは将来お受験に走らないことを祈るのみだ。