「君!、この資料の数字間違ってるじゃないか?」。オフィスに上司の声が響く。急いで彼の席に駆け寄ると、彼は電卓を手に報告書の数字を何度も計算し直している。「ここだよ、ここ」。彼はパソコンよりも自分の電卓の方を信用している。確かに彼の指摘通り、数字の計算値が間違っていた。「ハッ!」と思って自分の席に戻り、その報告書のファイルを開くと、そのセルに入れるべき計算式に間違いがあることに気が付いた。
こんな経験はないだろうか?。「まさか先月のデータも間違ってたんじゃないのか?」。毎月同じファイルをコピーして使用しているため、おそらくそうであろう。彼からのこの問いに対して、満足に返せる言葉がない。「君のミスは私のミスになるんだ」。「(そのミスを見つけるのが、あんたの仕事だろう)」と心の中で毒づいてみても、自分の失敗振りに気は紛れない。
こんなことは結構日常茶飯事かもしれない。毎日どこかの会社で必ず起きていることだろう。しかし、こんなことが人の人生を変えてしまうこともある。先頃、山形大学で発覚した、工学部入試合否の判定ミスの話である。今年だけでも90名、過去5年にわたって、500人近くの受験者が大学側の不手際で不合格にされていた事件だ。センター試験の国語の評点を現代文だけ(100点分)を対象にし、その値を2倍して総合点に加算する傾斜配点のはずが、2倍されることなく、古文や漢文の点も含めた200点満点として集計対象とされていたらしい。今年から始まった試験成績の開示を受けた受験生が、2倍するからには必ず国語の点数は偶数になるはずのところを「どうして国語の点が奇数なのですか?」と問い合わせたところで、これまでの不手際が発覚した。
一般の新聞報道ではこの原因を「プログラムのミス」と表現していた。しかし、現地の地方版ではさらに細かく報道がなされ、このプログラムというのは(パソコンの)表計算ソフトであることが分かった。センター試験の結果を受け取って、それを大学側で表計算ソフトに入力(インポート)していたらしい。確かに数千人のテストデータの集計ぐらい、この程度のシステムで十分である。「プログラムのミス」というのは正しくない。表計算ソフト自体のプログラムミスではなく、単に計算式の設定を間違っただけというのが事実だったようだ。なまじ単純な式であるため、見直しも不十分であったのだろう。工学部でありながら、これを5年もの間放置して、自ら気付くことがなかったとは。
今年救済された人はまだ多少救われる。不合格の翌年に再受験して合格した人もいた。彼らの浪人した1年は何だったのだろうか?。既に他の大学に進んで卒業してしまった人もいるはず。山形大学内では「文部科学省が補償のために10億(円)用意したらしい」との噂話まで出ているらしい。たかだか、計算式の間違いといった単純なミスでありながら、この被害を完全に収拾する方法はない。
この計算式を担当した職員の発覚後の気持ちは如何ばかりのものだろうか?。ほとんどの人は耐えられないだろう。そのことを思い、今度は何度も報告書の計算式を見直している。「オーイ」。「(また上司が電卓片手に次の奴を呼んでいる)」。
(秀)