全ては歴史観や歴史判断に起因している。その具体例の1つが東京裁判に対する認識であろう。「戦争に負けたから戦争犯罪になったけれども、連合国は同じ様なことをして勝ったがために戦敗国を裁いたに過ぎない」という意見がある。歴史に「もし」の前提は意味のないことだが、確かに逆の結果であったならば、英雄として靖国神社どころか東条神社に祀られていたに違いない。
事実は1つでしかないが、解釈や判断は幾通りもできる。そこが歴史教育(歴史だけでなく社会科学全般的にそうだろう)の難しいところだ。「侵略」とするか「進出」とするかの部分を教えるのも大事であるが、それ以上に学校教育で東京裁判について教えるべきであると思うし、サンフランシスコ講和条約の内容についても教えるべきだと思う。第二次世界大戦は年表上は4年間(3年8ヶ月)だったが、日本がそれ以前の満州事変から15年にわたって戦争を行っていたことも忘れてはならない。また、日清、日露、第一次大戦のことも。
太平洋戦争だけがクローズアップされているが靖国神社にはそれ以前の累々たる英霊達が祀られている。「負けた戦争だから戦犯だ」、「A級戦犯が合祀されている」という以前に靖国神社にはそれまでの侵略戦争に加担した人々も祀られているわけだ。このため、A級戦犯が合祀されていなくても靖国神社自体の位置付け・性格はあまり変わらないように私は思う。
また来年も同じ様な事が繰り返されるのだろうか?。こんな事が繰り返されるのは、戦争責任を曖昧にしてきたがために他ならない。失政により総理の支持率が落ちた状態でのこととなると、今年のようにはいかないかも。
(秀)