モノや情報を探すには2つのパターンがある。それは、最終的な対象物が決まっているか否かによって分かれる。それによって検索のプロセスが異なる。前者は、最終的な対象物は決まっているものの、はっきりとしない場合などだ。例えば、カラオケで歌いたい曲が決まっているのだが、曲名が分からないといった場合だ。最終的に必要な情報はマシンにエントリーする番号である。曲名が分からなくても歌手名が分かっていれば歌手別索引からそれらしい曲名を探し出すことになる。周辺情報によって不足部分を補い、最終目的を具体化していく例だ。一方後者は条件により対象を絞り込み、最終対象物を決定する場合だ。「久保田歌ってよ。バラードの(この場合の久保田は一緒に飲んでいる久保田氏ではなく、歌手の久保田利伸のことだ。彼の曲を歌えということだ)」と指名が来ると、歌手別索引から曲を探し出すわけである。バラード調かどうかは指名を受けた私の頭の中のデータベースを検索することになる。
人間の検索能力がコンピュータに比べて優れている点がある。曖昧さという点におけるそれだ。「キャノン」と間違っていても「キヤノン」としてデータをピックアップすることができる。もちろん半角文字でも可能だ。それが、コンピュータとなるとそうにはいかない。本来同じものでも、「マック」と「Macintosh」の様に表記が異なれば別のデータという扱いになってしまう。人間なら頭の中でこれらを正規化しているわけだ。「マック」と「Macintosh」が同一であると判断するのは経験によるものだ。また、いずれの語句に正規化しているかは結構曖昧だったりもするが(日によって違ったりする)。
ただ、探し出す対象範囲には限界がある。いくらインターネットが世界に繋がろうと何百万サイトあろうと、いつも見ているデータは日本語の限られた数のサイトでしかないだろう。書店や図書館の本を全て読むことができないのと同様である。そして、探し出したモノより本当はもっと良いものがあったとしても、それを検証することは容易ではないし、それに気が付かないことの方が多いと思う。ましてや人生の伴侶となると極限られた範囲(時間的にも)でしか検索できないわけである。