コラムニスト(秀)は演じている。彼は日頃の私とは別の人格である。私自身が(秀)を演じている、という表現が正しいだろう。その証拠に、書き上がってホームページで読む自分のコラムや本でのそれは、客観的に一読者の立場で読める。手前味噌で恐縮だが、400話の文量を思うと、「よく書いて来れたなあ」と感心している読者としての自分がいる。ついでに日常の自分とコラムを書いている(秀)は多少性格が違っている。
世にはあまた多くのコラムがあるし、メルマガやホームページの登場で敷居がだいぶ低くなって、誰しもが自由に意見を発表できるようになった。しかしながら、玉石混淆。お決まりな結論が容易に予想されるコラムが実に多い。時事問題に関して例を挙げるとすれば、政府や社会悪などに対し、被害者を代表するような口ぶりで「けしからん」という結論。ちょっと気の利いた例え話が出て来るのが関の山である。ドラマに例えて言えば「水戸黄門」。先が読めてしまっている。しかし、皮肉なことに新進気鋭のドラマよりも視聴率(読者数)が良かったりする。
常日頃、私がコラムを書きながら思うことは、自分にしか書けないコラムを書いているか?、という自問である。まあ、全作がそうとは限らないが、自分の実体験をベースに展開するし、また視点もある種、盲点と思えそうなところから眺めてみることにしている。もし、思いっきり言いたいことがあっても、誰もが同じような発想をするであろうことは書かないことにしている。それに、どこかで拾って来たようなネタの受け売りもやらないことにしている。雑学だか何だか知らないがどこかで読んだような、調べたようなネタをなぞっただけのコラムは書きたくない。
いつも、「普通でないコラム」を書きたいと思っている。読者諸氏もそんなところに興味を持って読んでくれていると思っている。そして、何よりも自分が読みたくなるものを(秀)を演じて書いている。