私が会社勤めをしていた頃の同僚に会うと、「残業ができなくなった」と口々に言う。「ノー残業デー」なる日は管理職はもとより、組合のパトロールによる監視もあって、就業後は追い出されるように会社を後にしているらしい。かと言って、その分の作業がそっくりなくなるわけはなく、別の日にしわ寄せが行く一方で、時間外労働分の稼ぎがなくなっていく。
世間一般では、就労時間を短くし、自己の生活の充実のためにその時間を割り当てることを「働き方改革」なんて言っているようだが、何とも薄っぺらい。時間外労働を無くし、休暇の取得を促進する程度なら、「休み方改革」という言葉の方がお似合いだ。就労時間を短くしながらも、従来同等のアウトプットを出すことが「働き方改革」ならまだしも。就労時間を減らすということは本来の理想的なスタイルのはずだが、現場での不満は大きいようだ。
さらに私は2つの大きな意味を加えたい。少子高齢化が進む中、人手不足や社会保障の財源問題から、60歳で定年、なんてことは言っておられず、65歳まで働くことなど当たり前、できれば70歳を超えてまでも働けるような準備をすることを「働き方改革」の意識の中に含めるべきだ。従来のように、週5日フルタイムで満員電車に揺られて同じような仕事を続けることが果たして可能だろうか?。そのときに、自分に合ったスタイルで稼ぎ続ける準備をする必要がある。これから先、年金もあまりあてにできない。これまでのキャリア等が活かせる一方、やりたいことややり甲斐ということの比重も大きくなることだろう。そのための準備。
そしてもう一つは、「自己の労働的価値の再確認」である。私は若い人などにしばしばこんな質問をする。「あなたの仕事は、5年後、10年後にもありますか?」と。そして、「そのときには、あなたの仕事をコンピュータがやっているかもしれないし、外国人がやっているかもしれない」と続ける。別に若い人だけではない。定年後の再雇用、これまでのスキルなどは不問で、コンピュータを操作することができなければ、就業の機会を失うことすらある。もちろん、そんな雇用では給料は安い。
空いた時間で、やれ副業だ、やれ資格取得だ(そんな仕事こそ、真っ先にコンピュータに職を追われるはず)と言うつもりはない。各々で考えてもらえれば良い。ただ、空いた時間で、少なくなった小遣いからわずかばかりの金を出し、酒場で会社や社会の不満を吐露して時間を浪費しているような生活なら、直ちにそれを改革すべし。
(秀)