次女が四年生に進級した。末っ子のせいか、周りへの依存心が強い。甘やかしすぎたかな、とちょっと反省したりしてみる。家人が毎朝時間割の確認をしているようだ。今朝もこうだった。連絡帳の持ってくるものに「ビニールぶくろ」とあるが、準備が出来ていない。「どんなビニール袋だ?」と聞いたら、「普通の」と答えた。
普通のビニール袋とはどんなものだろうか?。翻って、普通でないビニール袋とはどんなものだろうか?。言ってはみたものの、具体的なサイズなどの要件が彼女から出てこない。とりあえず、いくつかのビニール袋を持って出かけたが、娘の言った「普通の」という言葉が後になっても気になって仕方がない。
何が普通で、何が普通でないかは結構主観によるところが大きいのではないか?。そして何よりも、この「普通」という言葉がもう一方の「普通でないもの」を作り出す。非常に排他的な言葉に思えてきた。
普通の同意語に「標準」という言葉がある。これまた厄介な言葉だ。例えば、「標準」に対して「オプション」。ここでの標準とは本体なりに、機能や装備が含まれていることを表している。しかし、「標準レンズ」はカメラ本体とは別売が基本である(ここで「基本」と書いてしまうと、「基本」とは何?、という疑問が新たに生じるのだが)。
言葉とは非常に曖昧なものだ。突き詰めていけば行くほど難解になっていく。それは人間が個々の考えや気持ちはそれぞれ異なるものでありながらも、それを外部に表現したり、相手からそれを受け入れようとする際に、むしろ曖昧な部分がクッションの役割を果たしてくれている。
人は普通でありたいと思う一方で、普通ではつまらないという矛盾を抱えて生きている。自分はどうだろうか?。ただ私は「普通ではないコラム」を書きたいと常に思っている。何が「普通ではないコラム」であるかに明確な答えなどもちろんない。
普通の反対語は確か「特別」だったと思う。
(秀)