前話の締めをどうしようかと思慮している時に、徳島市で行われた、「吉野川稼動堰住民投票」の結果を知らせるニュースが飛び込んできた。そもそも投票数が50パーセントに満たなかった場合は、住民投票を無効とする限定付きの投票だった。結果、投票数は約55パーセントに達し、開票の結果は反対票が90パーセントを占めるに至った。投票率が50パーセントを越えた場合は反対派の勝利が予見されており、問題は投票率だというのが大方の見方であった。
さて、ここからが秀コラム的分析である。まず、反対票が投票数の中の圧倒的多数であるのは紛れもない事実であるが、市民の90パーセントが反対を表明したわけではない。賛成派はそもそも勝負に勝てないと判断して棄権を選んだのである。このことは新聞でもフォローしてあり、「反対票は全有権者のほぼ半数」と紹介している。面白いのはこれをまた逆説的に考えることである。賛成票は9,367票であった。これと無効票(1,870票)を足した数を投票数から引いてみよう。もう分かった人がいるかもしれないが、反対の票数が全体の過半数に達していないと言うことは、賛成に票を投じた人やわざわざ投票に行って白票を投じた人々が投票に行かなかったならば、この投票は不成立で、実質賛成派の勝利となっていたということである。地元の人々はこんな計算もやるだろうが、新聞やニュースではここまで伝わって来ない。変な話であるが、賛成派は「もっと熱心にボイコットしておけば」と、さぞ、悔しがったことだろう。
そもそも投票率が50パーセントに満たないと開票しないというルール自体が卑怯であるが、ことあるごとに法的拘束力のない住民投票を行うのはいかがなものかと思う。本来その様な住民の意志は選挙で示すもので、住民投票で決めるようなら政治家はいらないし、政治家の責任をますます曖昧にしてしまう。そして、選んだ側も無責任と言える。「首相公選制」というのは確かに聞えは良いが、その後の政情を思えば甚だ不安である。今回の例では反対派は議会の解散と市長のリコールというのが民主主義の手続きとしてはもっとも正当な手法だったと思う。開票後の記者会見で市長が「市民の意思として、反対」を表明したが、建設省からの天下り市長が選挙で支持してくれていた賛成派を裏切ったわけで、かと言って反対派が今後この市長を支持するのかは疑問である。結局、一番の痛手を負ったのは政治生命を断たれた、この市長だったかもしれない。この市長も選挙で選ばれたからには、かつては多数派であったはずだ。正しいことが数の論理でそう簡単に変わるものかと不思議でたまらない。本質はもっと根深いのだろう。きっと。
【おことわり】
私は吉野川稼働堰の是非について述べるほど、事態が理解できていない。市民活動をはじめ、地元でどのような活動が行われていたかも把握していない。本稿はマスコミで伝えられている範囲の情報を元に書いている。