「法の下の平等」。人は法の下では性別、身分、門地、思想など差別されないということだと思うが、実際はそうとは思えないことが多い。いざ、賠償となると人間の値段がその人の収入や将来性に応じて査定されることとなる。大学の時、法律の授業で教官から興味深い話を聞いた。「法の下の平等というのは、誰もが平等に扱われると言うのではなく、誰もが同じ法律の適用を受ける、ということです」、と。あまり、ピンと来ない話であるが、確かに現代に「武家諸法度」のように特定の階級にのみ提供される法律は皇室関係のものぐらいしかない。なるほど。しかし、同じことをやっても罪になる場合とそうでない場合がある。同じ刑法の適用を受けても、民間企業に勤める私には「収賄」の罪は適用されない。
法律というのは適用範囲が明確でなければならない。殺人は誰がやっても殺人である(誘拐や窃盗は相手との関係において罪にならない場合がある)。ところが、かなり適用が曖昧な犯罪が存在する。それはセクシャル・ハラスメントである。同じ事をやっても、やる人、やられる人によって、罪になったり、ならなかったりする。
以前は特に意識していなかったことに急に罪の意識が起きたりする。酒の席に女性社員を誘って、酌を強要したり、デュエットを強要したりする事はどうもいかんらしい。このような例ではほとんどの場合はセーフだろうが、セクハラになる場合もあるだろう。ただ、境目が極めてグレーで分かりにくい。しかし、その一方でホステスは酌やデュエットを、すなわちセクハラを商売として金に換えているわけだ。彼女たちが客をセクハラとして訴えることはないであろう。ますます適用範囲がブレ、平等はどこかに行ってしまう。何やら高尚なタイトルのわりにはいつもの様に下衆な話となってしまった。