平等であることは概念としては確かに正しいが、現実社会においてこれほど嘘っぱちな事はない。学校教育の場で平等であることがすばらしく説かれ、それを具体的に示そうとするが、学校も現実社会の一部に組み込まれている場でもあるため、そこにはいくつかの矛盾が生じることになる。教える立場の教師だけでなく、子供達も現実社会が平等でないことなど、とうの昔に気づいている。
いくら学校現場で平等を振りかざそうとも、実社会でそんなことは通用しない。何も子供達が学校を卒業して社会に接するのを待つまでもなく、学校の門を出て、家にたどり着いた途端に不平等な現実が待っている。裕福な家庭もあれば、貧しいところもある。夫婦仲が良い家庭もあれば、片親の家もある。枚挙に暇がない。子供が「みんな」とか、「誰でも」という言葉でねだると、「よそは、よそ」と応える親達。現に学校の場では成績という不平等のものさしが存在している。平等であることは理想ではあるが、現実的にそれを引き合いに出すのは画一化を狙う者達だ。平等という名の画一化であり、管理である。
SMAPの「世界に一つだけの花」を聞きながらふと思う。これは反画一化へのメッセージなのだろうか?。平等であることよりも、個としての存在を尊重するように訴えているのか?。「ナンバーワンにならなくても良い」という部分が、「(人生や競争から)降りてしまっている」ようで個人的にはちょっと嫌なんだけど、競争心を排除することで新たな平等感というものが今後派生していくのだろうか?。先回りして言っておくが、きっとそれも嘘っぱちだと思うよ。
(秀)