第972話 ■携帯電話の平等感

 携帯電話っていうやつはかなり平等なツールだなあ、と思っている。普及率が成人で90%を超えているとか。しかし、これだけの普及率だから平等と言っているわけではない。多機能になるに連れて操作も複雑になっていくが、メールが上手く使えなくても、通話ぐらいはできるもんだ。しかし、この点を捉えて平等と言っているわけでもない。

 かつて10年ぐらい昔は携帯電話を持っている人は少数派で、それ相応の理由のある人でなければ持てる物ではなかった。忙しい地上げ屋とか。高かったし。それは一種のステータスシンボルであって、でかい電話機をこれ見よがしに見せるものでもあった。次第に少しずつ加速度をつけて利用者は増えていくが、それがまだ少数派のときはまだステータスシンボルとして機能した。喫茶店などで一息つこうとも、携帯電話を取り出し、アンテナを伸ばして上手く電波が入りそうなところに置いておくなど。そこで携帯が鳴ろうものなら、「俺って、こんなに忙しいんだぜ」って。

 そして5年位前から携帯電話のステータスシンボルとしての価値がにわかに減衰した。持っている人と持っていない人の比率が逆転した頃ではなかろうか。この価値の希薄とともに携帯にはプリクラシールなんかが貼られるようになった。一層チープに見えてしまう。

 例えば腕時計の本質的な機能は(正しい)時刻を知ることである。しかし実社会では装飾品としての機能が大きいような気がする。前者の機能は千円の時計だろうが百万円の時計だろうがほとんど差がない。それなのに、百万円とは言わなくても、数十万円の時計を買う人は結構いる。装飾品として金を出しているわけだ。普及率だけで見ると時計は携帯電話以上に平等だが、価格的には不平等なモノと言える。

 そんな高価な時計をして、指にもそれこそ大きな石が輝く指輪が光っている。着ている服も高価そうだし、持っているバッグもブランド物。そんな女性がバッグから携帯電話を取り出した。いくら見かけに金が掛かっていようと、そんな飾られた手に握られた携帯電話の値段は他の人が持っているものとほとんど大差がない。これが私が平等なツールだと判断した理由である。かつては持っていることと持っていないことで不平等のツールであったものがここまで普及して最も平等なモノへとなったことに注目したい。

(秀)