子供は総じて笑い沸点が低い。例えば「うん○」と言うだけで、幼稚園児などはほぼ100パーセント笑う。小細工は無用、ストレートで良い。しかも爆笑。小学生も低学年のうちはさほど意味もなく笑う。それが高学年になるにつれて、だんだん笑いに対してシビアになっていく。ちょうど生意気になっていくのと時期は合っている。
そして齢を重ねるとともに、笑い沸点は上昇するが、ある時期を堺に次第に笑い沸点は下降していく。例えばオヤジギャグ。部長や課長による連日のギャグハラスメントを思い起こしてみよ。さらに老人になってくるとまた笑い沸点は下がっていく。「笑点」なんか見ながら、林家こん平にさえ笑ってしまう。かと言って高度なギャグは理解できないので笑わない。
ああいう風にちょっとしたことにも笑って余生を送れるのは魅力的だが、笑い沸点の低下は味覚における味音痴に相当する。何を見ても笑える、何を食ってもおいしく思える。そう言ってしまえば幸せだろうが、言い方を変えれば、面白くないものに対しても笑い、まずいものを食ってでもうまいと思うのは、少なくとも私にとってはつらいことのように思える。高度なギャグに笑えず、とてもうまいものに反応ができなくなっているからだ。
この笑い沸点曲線をグラフ化すると、年齢を横軸として、山なりの緩やかな放物線を描くと思われる。思い起こすと自分の場合も学校には生徒に人気の面白い先生というのが存在した。そして子供達に聞くと今も同じようなキャラの先生は生息しつづけているらしい。しかしどう考えても、それはオヤジギャグのレベルでしかない。にも関わらず、面白い先生が生徒に受けるのは、上り坂の笑い沸点曲線と下り坂の笑い沸点曲線が丁度同じ高さ位でバランスしているからだろう。我々は進歩しても先生は同じ年代をずっと相手にしているため、この点における進歩がない。かつて面白かった先生も単なるオヤジギャグ程度のことで人気者だったわけだ。そして、当時のクラスの人気者も所詮この程度だったと思う。
(秀)