地図を開いてみる。かつて私の実家があったところから、佐賀城跡までは、直線距離で約1キロだった。数年前までは「鯱(シャチ)の門」と呼ばれていたが、今では「佐賀城跡」と地元では呼ばれている。「佐賀城歴史記念館」というのが今の正式名称らしい。今でこそ城跡として、天守はないものの、御殿が再建されて、ちょっとした観光地になっているが、それ以前は門とその周囲にわずかの石垣が残っているだけだった。当時モノとして残っているものは、まさにこれだけで、城は明治7年の佐賀の乱で燃えてしまった。

 この復元のために、赤松小学校が元の城南中学校の場所に移転し、玉突きで、城南中学校は南佐賀に移転した。天守閣を本丸、一の丸と呼ぶのに対し、二の丸、三の丸という呼称が存在する。城跡の北側、住所地番で言えば城内2丁目に、もう四十数年前であるが、「二の丸温泉」という銭湯があった。佐賀城にも二の丸があったことの名残なのだろう。

 外濠はほとんど当時のままに残っているようだが、東側の一部が埋められてしまっている。古地図と照らし合わせると、龍谷高校と附属小学校の間にある堀がそのまま北に伸びて、貫通道路に突き当たるまで、外濠があった。今は閉館となってしまっている市民会館の前あたりになるのではなかろうか。古地図というものの、それほど古いものではなく、その地図で見る限りは昭和初期頃までは東側の外濠も残っていたようだ。更に遡ると本丸の周りには内堀があって、一の丸と二の丸は内堀をまたいで位置していたらしい。

 この鯱の門や県立博物館は私が通っていた小学校の学区外だったが、家から近いので遊びのテリトリーだった。大隈記念館も近くにあってよく通り掛かっていたが、当時はそこがどんなところなのかわかっていなかった。

 今回は地元ネタで失礼。

(秀)