第2006話 ■秀島藤之助

 確かこの話題は別のタイトルながら、以前にも書いたはずだが、新た情報も付加して、改めて書いてみる。

 司馬遼太郎の短編作品集に「アームストロング砲」なる本があり、そのタイトルの短編がある。この中に出てくる秀島藤之助と私の関わりについて尋ねられたことがこれまでに4回ある。最初に尋ねられた際には、司馬遼太郎の「アームストロング砲」も秀島藤之助についても知らなかった。

 アームストロング砲とは大きな両輪を持つ荷車風の砲車に備え付けられた、可動式の大砲である(船に積まれることもあった)。大砲の内側には螺旋状の溝が切られており、回転を持って送り出された砲弾は従来までの大砲などに比べて格段の飛距離と破壊力を誇った。発明者の名をとって、そう命名されているが、それを日本で作るための研究をしたのが佐賀藩の秀島藤之助であった。しかし、藤之助はその過程で乱心し、刃傷沙汰を起こしたため、地元の歴史でもなかなか表舞台に出ることはない。(詳しくは「アームストロング砲」に書かれている)

 今回、改めて「アームストロング砲」を読み返してみた。藤之助の姿は分からないが、時の佐賀藩主、鍋島閑叟公の写真などは地元では知れ渡っているため、私もその姿を知っている。その閑叟公が私の頭の中で、本の台詞を喋り、振る舞う。近年、世界遺産に指定された「三重津海軍所跡」もイギリスから買い求めたアームストロング砲が着き、そこで早速試射(試砲?)がされた場所として登場していた。以前読んだときには、何ら意識しなかった場所であった。

 秀島藤之助との関係について、同じ苗字だからと、尋ねられる。ちょっと最近になって調べてみたら、藤之助の直系である人はインターネットですぐに探せた。知らない人だったため、親戚付き合いがある人ではなかった。次いで、自分の先祖の戸籍を調べた。自分から数えて、4代前、高祖父(ヒイヒイ爺さん)の名前までわかった。

 実際に生没の日付が分かるのは、その下の曽祖父までで、袈裟次郎というこの先祖は、文政11年(1828年)に生まれ、明治26年(1893年)に亡くなっていた。幕末を挟み、藤之助が生きた頃の我が直系はこの人である。本籍地はその後に我が直系が本籍地とした場所と異なっていて、佐賀城下の南、登城に備えては便利な場所だった。当時は周辺は田圃ばかりで、その先に五層建ての天守を望んでいたに違いない。藤之助もこの村で同じ一族として暮らしていたのではないかと勝手に思っている。

(秀)