第2073話 ■「矢切の渡し」と寅さん

 「男はつらいよ」寅さんの舞台となった柴又は、江戸川をまたいで私の住む街の対岸にある。対岸から渡し船で柴又の川岸、土手に寅さんがやってくるシーンがあるが、この渡し船が実際に全国的に有名になったのは、この映画よりむしろ曲のヒットだったと思う。「矢切の渡し」。これによりその名と存在が広く認知されることになる。しかしそれだけでは、全国的にどこにあるのかまでの認知には至らなかったと思う。

 まあ、映画と曲が合わさることで、ようやく渡しの名前と場所が関東以外に住む人々にも、やや分かるようになったのではなかろうか?。曲のヒットで「やぎりのわたし」と濁音で呼ぶ人が大半だろうが、この辺りの古くからの地名は「やきり」であり、「やきりのわたし」が本来は正しい。濁らない。

 この曲が流行った当時、私は遠く九州の地に住んでいたので、この渡しがどこにあるのかなど知らないし、寅さんは知っていても、葛飾柴又がどこにあるのかさえも知らなかった。就職で関東に住むようになって、葛飾柴又の位置は分かったが、その地を訪れるのはそれからさらに数年後のことだった。

 松戸市内に住むようになって(そこは今の住所地とは違っていた)、柴又に行ってみようと思ったのは、その数年前に渥美清さんを生で見たせいでもあった。帰省のための空港で、搭乗前の彼を遠目に目撃し、同じ飛行機で福岡に向かった。43作目の撮影の時分だったか(43作目の舞台は大分。あるいは佐賀を舞台にした42作目のプロモーションでの福岡か?。当時まだ佐賀空港はなかった)?。この時の彼は、ジーパンにジージャン、キャップを被っていて、寅さんとはまた別の一面を持つ若作りのおじさんだった。

 そもそも「矢切の渡し」は観光用のものではなく、地元民の移動の手段だった。柴又側には帝釈天があるが、矢切側にはこれと言った観光資源などない。一面畑である。小説「野菊の墓」の舞台でもあるが、記念碑がある程度で、余程の文学好きでも喜べるものではない。そもそも、「野菊の墓」など今時分読む人は少なかろう。柴又から渡し船で矢切にやってきた人が「何もない!」と落胆し、再び船で柴又に戻る。そんなことが数年前、松戸市議会で話題になった。そのせいか最近、畑の一部を潰して公園を造っている。

 映画「男はつらいよ」第1話での寅さんの登場シーンは矢切から渡し船で柴又に帰ってくる。寅さんはこの矢切の渡し場までどうやってやってきたことになっていたのだろうか?。最寄り駅となる「矢切駅」は当時まだ存在していない。次の最寄り駅は松戸駅になるが、松戸駅で降りるくらいなら、隣駅の金町駅で降りて、京成金町線に乗り換え、あの柴又駅を目指すはずだ。

 ここからは私の推測。この撮影の時、寅さんは柴又側から一旦渡し船に乗って矢切側でスタンバイ。そこから折り返す形で柴又に帰って来たに違いない。まるで、折り返しで帰る、観光客のようにね。邪推だけど、きっと当たっているはず。

(秀)