第1006話 ■和解への苦渋

 早いもので、あの大阪池田小学校連続児童殺傷事件から2年の月日が経った。2年前に何かしらコラムに書き残したか?、と思い調べてみたが、事件当日の金曜日分は前日の木曜日に書き上げて配信予約していたらしいし、翌週のコラムにも何ら書いていなかった。どういうわけだか当日、金曜日にも関わらず私は家にいて、インターネットのニュースサイトで一報を得、NHKのニュースに釘付けになったことを覚えている。

 ふと自分の子供達の顔が頭に浮かぶ。その瞬間、震えや言葉にできないような嫌悪感の一種を感じようとも、それが精一杯である。心のどこかで自分の子供でなくて良かったと思った瞬間、他人事になってしまっている。皆そうだと思う。いくら境遇が似ていようとも、犠牲者と顔見知りであったにしろ、犠牲者と同じ立場になれるものではない。それは想像しているだけで、要はバーチャルでしかない。悲しいニュースの後、それが終わった直後やチャンネルを変えた直後にテレビを見て我々は笑っているかもしれない。

 いったいニュースは何を伝えたいと思っているのだろうか?。犠牲者家族が国と和解したことを報じていたが、その直後にその遺族の会見の模様を流していた。NHKも同様の伝え方をしたかどうかは不明だが、民放のニュースショーはいかにもこの遺族の会見を浪花節的に伝えているように思えた。「遺族はこの和解には満足していない」という事実を伝えることも必要だろうが、情に訴える画像をタレ流すのはいかがなものだろう。

 とは言うものの、それなりにあの映像を見て私はいろいろと考えた。最初は「不満があるなら和解すべきじゃなかった」と。言葉を変えると「和解したからには不満を言ってはいけない」という意味である。総額4億円、犠牲者一人あたり4千数百万円という国家賠償は破格と思われる。しかし、その直後にそれでも収まりが付かない親心を察した。所詮、金ではない。「謝罪がなっていない」というのも持って行き場のない怒りの表現の一つでしかなく、どんなりっぱな謝罪をしてもらおうと自分の子供達が帰ってこないことには変わりがない。

 それでもいつかはけじめを付けねばならず、ここで和解しないと条件は悪くなるだろうし、世間的には「強欲もの」と見る輩も出てくるかもしれない。まさに苦渋の選択だったはず。金で買えないものがあると言いながらも、社会のメカニズムとして最後は金で解決するしか仕方がない。当事者にとってそれは虚しいやり方だが、我々はそれを現実として受け入れなければならない。あとは時が癒してくれるしかないのか。ただ、本当の痛みや辛さは当事者でしか分からない。

(秀)