第1729話 ■つぶやき
年に2、3度開催している、高校のときの同級生による同窓飲み会の席で、参加者の一人から「ツィッター(Twitter)やってる?」という話題が投げかけられた。彼は手にiPhoneを握り締めている。「ブログとかやっているのなら、やった方が良いよ」という話から「やらない手はないと思う」というところまで彼の説得は強調され、ならばということで、昨日私はTwitterの書籍を一冊買った。
Twitterの存在自体は以前からも知っていたが、今イチ掴みどころのない媒体というイメージしかなかった。「つぶやき」と訳される言葉にも、「そんなつぶやきにどれほどの価値があるのか?」というくらいの反応しかこれまで示していなかった。
まあそれでもインターネット環境に俗されている私には、新たな媒体としてそれほど話題になっているのなら、試してみても良いだろうと、早速アカウントの登録を行った。最初は一人ぼっちであるため、登録システムに勧められるままに、推奨者20名を「フォローする」ことにした。この「フォローする」とは、相手のつぶやきの読者になる、ということを表現した用語だ。
その後、冒頭の友達を検索で探し出し、彼もフォローした。タイムラインと呼ばれるメッセージが表示される欄に、いくつかのメッセージが次々と表示されていく。リアルタイム性を考えれば、チャットに似ていると思った。ただ、一部両者間での受け応えになっているものもあるが、ほとんどの発言は全く関係なく、バラバラのことをそれぞれが発言している。
正直なところ、まだ何が面白いのか私には分からない。他人のどうでも良い発言を読んで面白がる感覚が分からない。これが全くの他人ではなく、身近な人々でフォローしたり、フォローされたりの関係ができてくると面白味が増すのかもしれないが。
Twitterの面白みはリアルタイム性にあるらしい。だったら、と思って、今度私は寄席の会場でリアルタイムにその様子をつぶやいてみようかと思っている。ただ、誰も見てくれなくて捨て去られるのはちょっと寂しい。私の画面からはフォローしている人々のつぶやきを見ることができるが、相手側が私をフォローしていなければ、私のつぶやきを相手が見ることはできない。
私がコラムなどの原稿を書く場合は、頭の中で文章を展開して、構成がある程度まとまった段階で実際にキーボードを叩き始める。だからそれまでの過程では頭の中で言葉を探しながら、つぶやいているのだ。それに比べたら画面に次々に表示されるつぶやきの何と意味のないことか。けど、このゆるーい感覚がTwitterには大切なのだろう。
現時点では支持でも不支持でもなく、模様眺めの状態。周りに仲間が増えれば、評価も変わってくることだろう。「雑文亭秀之輔」。これがTwitterでの私の名前だ。気が向いたら、フォローしていただきたい。
(秀)
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