第1433話 ■落語は見るもの
「落語を聞く」なんて表現があるが、私的には「落語を見る」というのが正しいと思う。便利なものでポッドキャスティングで落語をダウンロードして聞くことができるが、初めて聞く演目の場合、場面が想像できないので、面白さも半減である。テレビドラマの音声だけを聴いているようなもんだ。ラジオドラマは映像がない分、音声で伝えようと工夫があるが、落語にそんな工夫や配慮なんてない。
「上下(かみしも)を切る」という表現がある。噺手が登場人物を演じ分ける際に、左右に顔の向きを変える動作のことだ。上手(かみて・右)から下手(しもて・左)を向いて話すときは目上の人。例えば、ご隠居や旦那となる。それに対して下手から上手は目下の人になる。最初はストーリーを追うことに精一杯だが、次第にこの上下で状況を判断できるようになる。
続いて見ることの重要さに動作と表情がある。手ぬぐいと扇子のアイテムもきわめて重要である。こればっかりは音だけでは想像できない。あまり上手くない噺家はこれら小道具の使い方がやはりまずい。私は扇子を使ったキセルで煙草を吸う振りというのが好きだ。話の展開上、あまり重要とは思えない動作だが、間と言うか緩急を付ける上で、うまくこの動作が行われると噺も上手く聞こえるから不思議なものだ。
名人5代目古今亭志ん生師匠の「らくだ」という演目をCDで聞いた。既に亡くなって三十余年経っているため、顔は分かるが、師匠の高座はテレビでも見た覚えがない。それでも高座での音源が今も数多く残っていて、CDの数も最も多い噺家だと思う。その中の「らくだ」を聞いた。有名な演目だが、まだ見たことも聞いたこともない噺で、正直、何がどう面白いのか分からなかった。
そこである二ツ目の噺家がこの「らくだ」を掛ける落語会があったので行ってみた。ようやく噺が分かったし、とても面白かった。その落語会の帰り道、ウォークマンで志ん生師匠の「らくだ」を聞いてみると、最初に聞いたときとは比べ物にならないほどに噺がすんなりと頭に入っていった。
やはり落語は見るものである。少なくとも最低1度は見たことのある演目でないと音だけで楽しむことは難しい。最近はテレビのBS放送で定期的に落語の番組が放送されたりしているが、やはりライブで見るのにはかなわない。また、落語=笑点というのはそもそも間違い。
(秀)
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