第148話 ■忠臣蔵 2

 忠臣蔵を見る場合の視点はほとんどの人が、大石内蔵助の立場になっていることだろう。たまには吉良上野介の立場になって見るのも楽しいかもしれない。ストーリーは勧善懲悪の内容であるが、かなりの誇張があり、そもそもの事件が内匠頭の思い込みがあったかもしれない。思いっきり、人の良い吉良上野介と優柔不断な大石内蔵助という設定の芝居も結構面白いかもしれない。大石は最初から吉良に討ち入ろうなどとは思っていなかった(らしい)。ところが、彼の考えたお家復興の策が行き詰まるにつれ、ついに討ち入りを決意する。推進派の押しに色々と弁解をして来たが、万事休すとなった時点で逃げられなくなってしまったような気がする。周りから祭り上げられて引くに引けなくなってしまったのかもしれない。他の義士にしても集団催眠状態に近かったはずだ。今風に言えば殺人カルト集団ということかもしれない。

 そして、義士と呼ばれる彼らの行動は本当に正義だったのだろうか。かつては「敵討ち」が公に認められていたのは事実であるが、これは親兄弟に限ったことだった。テレビなどで時代劇となると必ず人が死ぬことになっている。刀を抜かない時代劇など見たことがない。同様に撃ち合いをしない西部劇というのも成り立たないが。しかし、いくら江戸時代でもあのように日常茶飯事で人殺しが行われてはいなかったようだ。忠臣蔵のストーリーを現代劇に当てはめて脚色するとなると、集団で相手を討ち入り、殺戮するという点で社会的に受け入れらないだろう。「悪に対する悪は許される」といった、主張のドラマが国営放送で放送されているというのは冷静に考えれば甚だ変な話である。

 誤解して貰っては困るが、いろいろと批判的なことを書いているが私は忠臣蔵ファンである。そして、話はまだ続く。