第1786話 ■ゲーム産業批判

 公立学校の週休二日制が始まったとき、新たに自由時間を獲得した彼らがどのような時間を過ごすのかを、その日の夕方のニュースで特集していた。細かくは忘れてしまったが、土曜日も学習塾通いに費やす子供たちの一方で、小学生が自分の家の店を手伝っていた映像には大変感心した。その彼がその後もその手伝いを続けたか、それともそれがニュース取材のための一度きりのことだったのかどうかを知る由もないが、大まかに言って、子供たちは暇を持て余しているのではないかと思う。結局多くの人々が振り回された「ゆとり教育」は、予想通り子供たちの学習能力の低下をまねいた。学校の現場では授業時間が大幅に削減され、それに伴い行事が大幅にカットされている。

 さて、暇な子供たちは週末に何をしているか。たとえば大型の中古書店に行ってみれば良い。漫画のコミックの部分を中心に多くの子供たちが立ち読みしている。彼らが文字の本を立ち読みしている姿を見ることはまずない。新品の書店ではコミックが立ち読みできないように包装されて並んでいるし、ゆっくり座って読める漫画喫茶は金が掛かる。立ったままの状態さえ我慢すれば、タダで漫画が読める快適な空間なのだろう。なかば、漫画図書館と化している。

 また、スーパーやショッピングセンターなどで携帯型ゲーム機に興じている子供たちもいる。モバイルパソコンを持ち歩く私が言うのもなんだが、わざわざゲーム機を外に持ち出してまで遊びたいところを見ると、この子たちはまんまと企業の策略に引っ掛かっているなあ、私は苦笑いである。けど、同じ時間に家の中にこもって、テレビに接続したものも含めて、ゲームで遊んでいる数はそれよりも多いかも知れない。また、外でゲーム機で遊んだ子供たちは家に帰ってからも、そのゲーム機か据え置きのゲーム機で遊んでいるに違いない。

 今回の私の主張はここからである。ゲームの中毒性についてである。面白いゲームには中毒性がある。特に子供たちは節度なく、なかなか止めることができない。その結果、一時的ながらも攻撃的になったり、イライラしたりと情緒的にダメージを与えている。次第にこのダメージが慢性化して、ボディブローのように効いてくる。親は子供の喜ぶ顔を見るために、良かれと思い、それらを買い与えているのだろうが、ゲーム産業は、実際のところ子供たちをむしばみ、大人においても生産性を妨げる、悪魔の産業のように思えてくる。

 休日などのパチンコ店に開店前から行列をなしている人々の姿を見ると、遺憾な気持ちになる。いい大人なのだから、その人の個人の責任で節度を持ってやっている限り、他人がとやかく言う必要はないかも知れない。ただ、時間と金を浪してまで得られる快感はもはや中毒である。ゲーム機に興じる子供たちと同じで、むしばまれている。これが私の単なる思い込みなら良いのだが、ゲーム機に興じた子供たちの中毒性が、その後成長してギャンブルの中毒性へと発展するのではないかと私は懸念している。

 冒頭の立ち読みで時間を浪費する子供たちも含め、老若男女、時間は有効に使わないといけない。もっと生産的なことに時間を使うべきだ。刹那の娯楽を幸福だと感じるのは一種の中毒だったりする。単に娯楽が多いことが幸福ではない。時間を浪費する人は金も浪費しかねない。打算的な大人の手によって、子供たちの将来を壊してはいけない。彼らはキャラクターの顔で子供たちを喰い物にして、むしばんでくる。例えばそのようなメーカーに勤めている大人たちは、自分の子どもたちがゲームにはまっている姿を見て、微笑ましく笑っていられるだろうか?。

(秀)