第179話 ■虚言癖

 風邪の季節である。通勤途中の電車の中でもマスクをしている人の姿が目につく。私の目の前で座席に座っている髪の長い女性もマスクをしている。季節外れの怪談話で恐縮だが、「口裂け女」のことを思い出した。

 口裂け女のブームは1979年のことで、もう20年以上も前のことになる。当時私は中学生であったが、誰からともなく、その話が伝わって来た。この話は各地方でのバリエーションがあるらしい。長い髪に大きなマスク、見掛けは美人で、白いコートを着ている(噂話は春先だったけど)。「私、きれい?」と問いかけ、「きれい」と答えると、マスクを外し、「これでもか?」と、鎌を持って100メートル6秒台の俊足で追いかけて来る、というのが私の地方でのスタイルだった。地方によっては「ブス」と答えると、追いかけて来るというところもあるようだ。べっこう飴やポマードのルールは残念ながら、リアルタイムには聞いた記憶がない。

 話はますます大きくなる。地元でも駅前に口裂け女が現れて、被害者が出た、という噂が広まり、地方紙が、警察にこの噂の真偽を確認する人が出たことや、この噂がデマであることを報じるまでの騒ぎとなった。駄菓子屋では「口裂け女の唇」が売られ、興味本意で買ってしまった。ゴムで出来ていて、両脇の輪ゴムを耳に掛けて使う。30円也。

 噂は噂を呼び、大きくなり、変化していく。最初は誰かの創作であり、伝わっていくうちに、想像でその創造にアレンジを付加していく者がいる。この手の人は意識的にそれを行っているうちは良いが、次第にその意識が麻痺して、フィクションとの境が曖昧になり、やがて虚言癖へと発展する(かもしれない)。

 座席に座る、マスクをした長い髪の女性の前で、私はつり革に掴まっていた。次の駅が間近であることがアナウンスされると、彼女は顔を上げ、その瞬間私と目が合い、彼女がかすかに微笑んだ。「きれいな人だなあ」。彼女は降りるらしく、立ち上がると、私の耳元で「私、きれい?」とささやいた。通り過ぎる彼女の横で、一瞬身が凍りつき、電車は次の駅のホームに滑り込んで行った。なあんだ。自分が一番の嘘つきじゃないか。

※—「べっこう飴」:口裂け女の好物で、これをあげるとおとなしくなる。

「ポマード」:口裂け女の苦手なもので、逃げていく。「ポマード」と叫ぶだけでも効果あり。