第360話 ■教えてあげる

 会社の帰りに本屋で立ち読みをしていたら、若い男女がすぐ横に来て本を探し始めた。会話から察するに、二人は同じ会社の同僚らしい。「Javaの入門書みたいなものないかしら」と女性が言った。手当たり次第に「Java」と書かれた本をめくっている。さらに会話に耳を立てると、どうもこの女性はJavaの初心者らしい。そして、彼女が一冊の本を平積みなった下の方から手に取ると、二人でレジへと歩いて行った。その本は私も持っているが、決して入門書ではなく、リファレンスとしてポイント毎に参照するような構成になっている。正直なところ、初心者には難しい本だ。

 声を掛けて、教えてあげようかどうか悩むときというのがいろいろある。衣替えの直後にはクリーニングのタグを付けたまま歩いている人を見かける。背広の襟が変になっている人。ボタンダウンの締め忘れに、社会の窓。ストッキングの伝染も見ず知らずの人には言えない。女性同士なら知らない人でも平気なのだろうか?。(教えてあげる側が)おばちゃんなら抵抗なくできそうだが。まあ、これらは親切の類であるからまだ良いが、本屋でいきなり、「その本は良くありません」と店員でもない通りすがりの人に声を掛けられたら気味が悪い。先程の本屋の例で私がよほどその本が初心者向けでない事を教えてあげようと思ったがやめた理由はここにある。相手が男連れだったからではない。

 以前、こんなことがあった。会社の最寄り駅は地下鉄の駅で、その駅が始発となる電車も発車したりしている。「間もなく2番線に当駅発の電車が参ります」とアナウンスが流れ、車庫から電車が出て来た。なんと、本来、人が乗っているはずのないで電車でありながら、一人のオヤジがその電車の中で眠っていた。どのくらい前かは分からないが、回送電車として車庫に入る時から眠っていたに違いない。終点で折り返し運転になる電車で眠ってしまい、往復ビンタのごとく、逆方向に連れ戻されるオヤジはよく見るが、回送電車で連れていかれた(であろう)オヤジを見たのは後にも前にもこのとき限りである。