第1826話 ■忘却恐怖症

 読書の話題。本日も続く。昨年の今頃だったか、試しにどのくらい本が読めるものか、挑戦したことがある。会社勤めをしていた頃にも、通勤時間を主に、どれくらい本が読めるのかに挑戦したことがある。15年位前のことだったと思う。とりあえず、年間100冊を目標に始めたが、その期間のゴールが来る前に、本を買い続けるお金がパンクして、80冊位で断念したことがある。お金が続いていたら、100冊いけたかどうか、微妙な進捗ではあった。

 で、昨年の挑戦である。会社勤めを既に辞めていて、時間にも多少の余裕があったので、思い切って、1日1冊を目標にした。今回はたくさんの本の在庫があるため、途中で本代でパンクする心配はない。翌朝に決まった時間に起きる必要もないため、昼間読み終えられなかったら、夜読んで、読み終わらなければ寝ないつもりで挑んでみた。結果は、結構すんなりと実現できた。調子が良ければ、1日に2冊、3冊でも可能で、1ヶ月に50冊は読めた。ただ、この時に読んだ本の内容はほとんど覚えていない。おそらく、読み方が以前と変わってしまったのだと思う。

 私はいろいろと覚えておく性質で、特に、子供の頃や学生の頃のことは結構しっかりと覚えている。そのせいか、かつては読んだ本のこともしばらくは覚えていた。それが読む本の数が増えてきたら、次第に読んだ本について覚えている期間が短くなってきた。似たような本を数冊読むと、どの本に書かれていたのか思い出せないこと多々。たまたま、読書会に参加するようになった頃に、その会で報告するために「読書メモ」を書くようになった。読解力、まとめる能力のトレーニングにはなるが、いかんせん時間が掛かり過ぎる。

 本を読み終わったにせよ、その本に何が書かれていたか、思い出せないとしたら、その本を読んだ時間は無駄になってしまうのだろうか?。そのせいか、読み終えた雑誌を捨てるにも決断がいるし、読んだ本を捨てる、あるいは手放すとなると、読んだ記憶を消し去るようで、置き場所に困って、書籍を電子ファイルとして残すことになったのもある。

 別に本に限らない。テレビでも、映画でも、見終わってしばらく後に、内容のほんとんどを忘れてしまっていたとしたら、その時間は無駄だったのだろうか?。見ているとき、読んでいるときは、確かに嬉しい。それだけで果たして十分か?。これは読書や映画に限った話ではない。日々の生活、人生そのものにもそう思ってしまう。「忘却恐怖症」とでも言うべきか?。忘れることへの折り合いをつけることがなかなかうまくできない。

(秀)