第1855話 ■失言に対する日常的背景

 どれほどの視聴率があるのかは分からないものの、選挙期間中のテレビでの討論番組だから、そこでの発言はその番組を見ていない人にも、すぐにメディアで伝達される。共産党の議員(政策委員長)が「防衛費は人を殺すための予算」と言ったらしい話。私がこの報道を最初に目にしたのは、産経系のメディアだったし、その後も盛んにこのネタを叩いているのも産経系のメディアだった。彼らにはまさに格好の攻撃材料ではないか。私的には、こんなメディアの思想的背景が見えるところが何よりもおかしい。

 平和安全法制関連法規を「戦争法」、防衛費を「軍事費」と言っているところに、彼らの油断があったに違いない。言葉は重要だ。法律や予算の費目を、彼らの解釈により、実質的にそうだからと、勝手に呼び替えるところに、世間との乖離が認められる。要は浮いている。そんなことだから、ダメなんだよ。

 組織あるいは集団にこのようなことは起こりがちだ。表向きお客様として扱う一方で、陰口を囁いている例。上司の悪口を本人不在の場所で言い合っている例。これらが何かの弾みで、相手の知るところとなる。平素からそんな気持ちでいるから、ちょっとした気の緩みで「ここだけの話」でなくなる。

 右とか左とか関係なく、心に思っていることは口に出やすい。ましてやテレビ討論の場となると、功を焦り、何か印象に残る言葉で、何とか相手をギューっと言わせてやろうとここぞとばかりに、要は、いつもの支持者の前で使い慣れた言葉がポロリとこぼれてしまったに違いない。配慮が足りなかったとか、言葉が足りなかったというレベルの話ではない。常日頃そう思っているという表れだ。街頭演説とかで支持者に囲まれた中、日頃からそう言って、悦に入っていたのだろう。テレビでそれをそのまま言って、あまりもの反応に驚いている。私が常日頃言っている「想像力の欠如」ということだ。

(秀)