第435話 ■消火器

 その日は久しぶりの飲み会で、ただでさえ酒に弱い私はいつも以上に酔っていた。うれしいことに新お茶の水駅からは地下鉄で乗り換えなしに帰ることができる。しかし、その喜びも束の間、地下鉄千代田線は月曜日の結構遅い時刻にもかかわらずかなり混んでいた。飲み会の時は電車で家に帰りつくエネルギーを温存しておかねばならない。酒に酔った状態で電車に一時間近く揺られているのは結構辛い。今日は乗り換えもなく、いつもより近いがこの人いきれにはまいってしまう。

 ようやく人が電車から減りはじめた。空いている吊り革を目指して移動する。とりあえず翌日分のコラムが書き上がっているのは幸い。この状態で書きはじめたら余計に酔いが回ってしまう。ふと、目を右の方に転じると車両の連結部側にに消火器を見つけた。会社での避難訓練の様子が蘇り、「まずは安全ピンを抜く。まずは安全ピンを抜く」という言葉が頭の中でこだまする。

 こんなところに消火器が置いてある理由は、いざといった車両火災に備えてのために他ならない。その位置関係から言って、今この消火器は私が使用するに最も近いところにある。ということは、いざという時には私がこの消火器を手に火元に駆けつけなければならないわけだ。「まずは安全ピンを抜く。まずは安全ピンを抜く」という言葉が頭の中でこだまする。ちょっと身震いがした。今思うと、それは緊張感からではなく、単に酔いが醒めて来ただけだったと思う。

 その日はいつもより酔っていた。電車もいつも利用しているのとは違う。そこで現れた消火器。「安全ピン」のことが気になりながらも、ようやく車内放送は最寄り駅の駅名を告げた。この日ばかりは駅からタクシーで帰った。

(秀)