第1401話 ■忠臣蔵の尺

 さて、今年もまたこの日を迎えた。忠臣蔵吉良邸討ち入りの日。この日が来ると毎年、「今年ももう残りわずかだなあ」と実感する。ところでこの忠臣蔵という話、尺の点から見るとなかなか厄介な話に思える。尺とは時間の長さのことである。何よりも全編となると話が長すぎる。

 忠臣蔵の見所はやはり討ち入りのシーンであるし、もう一つは松の廊下での刃傷事件である。この間には1年3ヶ月という月日が流れている。いくら見せ場だからと言って、浅野内匠頭が切腹をした直後に義士が吉良邸に討ち入るような芝居や映画には無理がある。この1年3ヶ月の大石内蔵助の苦悩を描かないと話としては不十分だ。

 しかしこれが退屈で仕方がない。歌舞伎などではこの間に人情話めいた話が存在しているが、過度に脚色されていて、史実からは程遠かったりする。このことは、史実に即したものがそれだけ退屈である証拠である。内蔵助は当初、浅野内匠頭の弟である浅野大学によるお家再興を幕府に訴え、恭順を示しているが、これが叶わないとなると、討ち入りを決心した様に描かれている。私は常々思う。本当に内蔵助は討ち入りをしたかったのだろうか、と。周りに外堀を埋められて、身動きが取れなくなった結果のことであって、私としては内蔵助はもっと弱い人間の方が、リアリティがあったように感じる。

 多くの人が知っている話であり、私も映画やドラマで何度も見てきた話だ。だから最近はかいつまんで、刃傷沙汰から浅野の切腹、そして討ち入りのシーンを見るだけになった。中には討ち入りの少し前から話が始まり、回想シーンとして、刃傷沙汰や浅野の切腹を見せるものもある。そして間もなく討ち入りへつながる。尺の扱いとして非常にうまいやり方だと思う。

 そしてこの話の難しいところは、どこで話を終わらせるかである。最も短いものは吉良の首を討ち取った時点。そして最も長いのは、義士の切腹が行われるところまで。但し、ここまで長いと、せっかく討ち入りで盛り上がった見ている側のテンションが台無しになってしまう。私としては討ち入りを終え、泉岳寺まで彼らが行進をしていくシーンで終わるのが最も適当だと思う。江戸の町の人々の賞賛を受け彼らが行進をするシーンは、討ち入りのシーンを見て、熱しきったテンションをちょっとした感動へと引っ張ってくれる。

(秀)