第1523話 ■天窓事件にふれて

 我が家の2階の部屋の1つに天窓が付いている。日中はそこから日が差し込み、まるで電気を点けているかのように明るい。屋根には上ったことがないので、外からどんな格好なのかを見たことはないが、屋根に上ったところで、そこに足を掛けてみようという気にはならない。「壊れたらどうしよう?」。ケガよりもまず、修理代といった金銭的な方に関心が行ってしまう。

 先週、東京杉並区で小学生が屋上の天窓を破壊して落下し、死亡するといった痛ましい事件が起きた。やれ、安全対策がどうだったとか、原因は?、責任は?、といった視点からの報道もなされているようだ。プラスチック製の天窓の製造メーカーは「人が乗ることは想定していない」と言う。当然のことだ。この校舎の設計士も「子供は立ち入らないと聞いていた」と言う。そう聞かされていたのなら、設計上の問題とも言えない。

 果たしてこの少年はどうやってこの天窓を踏み破ったのであろうか?。6年生ということで体重もあった大きな少年だったのだろうか?。まさか、天窓の上で飛び跳ねたりしてはいないだろうか?(どうやら、天窓の上で両足でジャンプしていたらしい)。友達とふざけて、調子に乗ったりしていなかったのか?。「割れるかな?」と思って踏んだのか?。けど、もし割れたらどうなるかという部分に意識が行かなかったことだろう。

 もし、天窓は割れてもガラスの部分で助かっていたら、天窓を破損したことでこの少年は怒られていたことだろう。それが死亡したり、大ケガをすると学校側の管理責任なんて言い方をするのに私は疑問がある。同じことをやっておきながら、被害の程度で怒られる立場が入れ替わるのはおかしい。もし落下したところに人がいた場合は誰が責任を取るのだ。

 この種の事件はここ数年間で何度も起きており、死者も出ている。だが、これらの情報がうまく活用されず、今回の事件が起こった。このような事件は想定し得なかった隙間によって起きる。死んでしまった少年に対してもそうだが、私はこの小学校の担任教諭や校長が気の毒でしょうがない。この気持ちは、例え自分の子供が事件の当事者であった場合も変わらないと断言できる。少なくとも私たちの少年時代はそんな雰囲気の中で育った。

(秀)