第617話 ■「忙しい」について

 一口に「忙しい」と言ってもスタイルは様々だ。例えば、夕方のスーパーでのレジ打ち。たくさんの客が行列をなしている。確かに忙しいだろう。しかし、時間が過ぎるにつれ、その行列は解消されるだろうし、閉店の時刻を以て、すべてから解放される。プライベートな時間まで、この忙しさで拘束されることはまず無かろう。

 仕事量が増え、それが通常の終業時刻を過ぎても終わらない状態がサラリーマンにはよくある。しかし、その内容を観察してみると、細々とした作業内容だったりする。ただ、それぞれは個々として集中力を阻害される状態で存在している。一つ一つは一時間足らずで片づくはずだからといって、一日8時間で8個の作業を片づけることはできない。電話などの割り込みが入ったりして、そのうちの5個しかできなかったりする。創作的な作業は終わりがありそうで、実はない。席に座っていて時間が経てば自動的に終わることなど、絶対あり得ない。そのために、残業。この時間のズレはプライベートな時間の減少へと至る。もちろん、プライベートにも忙しさはあるだろう。

 忙しい人は大変だろう。ところがこれはスケジュールが埋まっていることと必ずしも同じではない。毎日毎日、会議や人と会うことでスケジュールは一杯。しかし、そのための準備を部下に任せているような人なら、質的な忙しさというのは、まだ軽微と言わざるを得ない。「忙しい」と言うには、混沌とした焦燥感が欠かせない。一つ一つは小さくても、それらが混沌とした(漠然とした)状態であれば、それだけでもう忙しい気がしてしまう。秘書やマネージャーにスケジュールやそれにまつわる段取りのすべての管理を任せている人はその分楽だろう。でなければ、分単位での切り替えなど、そうそうできるものではない。

 高校のときの担任が「『忙しい』という字は『心』が『亡い』という字だ。『忘れる』も同じ」と学活の時間に話した。何か金八先生の様な話であるが、あいにく日本史の教諭だった。忙しい人は大変だろう。人は忙しくなると、横柄になったり、人との対応が粗雑になったりすることが多い。これは良くない。「忙しい」と自慢げに嘆く人などもいる。心が亡いとは良くできた字だと感心してしまう。

(秀)