第887話 ■シンパサイザー

 私が大学生だった頃、それはバブル経済の最中で、「これで就職は楽チンだ」と思う一方で、実際の価値に見合わない、かりそめの経済成長に経済学部の学生としてある種の不安を感じていた。まさかデフレにまでなるとは思わなかったが、ほぼ予想通りにバブルは就職してから数年の後に弾けて消えた。また、学生時代は国内の生産業が海外へと生産拠点を移す一方で、NICSやNIESと呼ばれる、韓国、香港、台湾、シンガポールなどの国や地域での家電製品などが大量に生産されて、日本にも輸入され出した頃でもあった。言わば、経済の大きな転換点に経済学部の学生として時代を送っていたことになる。

 当時のNICSやNIES商品の台頭は著しく、ちょっと聞いたことのないブランドのラジカセなどがディスカウントショップなどで幅を利かせていて、それほど違和感なくそれを買い求める人がそこそこいた。安かろう、悪かろうという覚悟はあるものの、その一方で、このくらいの価格なら壊れてもあきらめがつく、このぐらいのものなら技術的にも国内ブランドのものとほとんど変わらないだろう、と思った。国内ブランド品も同じように海外で生産されるようになっていたことだし。

 当時、近辺の大学とのゼミナールの研究会で、アトラクションとしてパネルディスカッションが行われた。テーマは「NIES諸国の製品が今後も日本で受け入れられるか?」という感じのものだった。折りしも韓国製の自動車が日本で販売されるというニュースが流れた頃である。私はこのパネルディスカッションのテーマのためにレポート用紙3枚ほどの回答を事前に提出しておいたが、本番ではそのレポートに従って発表する時間的余裕はなく、かいつまんでその要旨を発表した。

 「自動車のように高価なものの場合、それを買う人の存在以前に、それを許容する周りの人々の存在が欠かせない。自ら買わなくても、それを見てみたい。買った人が身近にいたら、話を聞いてみたい。そんな人々の存在が必要で、そのような人がいることで、買う人はその心理的ハードルが低くなる。特に周りにそれを持っている人がいない場合は特にそうだ」といったことを述べた。

 高価なもの、ステータスに関わるようなもののときに特にこの傾向が強いと思う。要は他人の目が気になるということだ。この周辺にいる人々はシンパ(シンパサイザー)として、潜在的な次の見込み客になる。バブルのために我々は天狗になっていて、見下していたせいもあるだろう。結局、そのようなシンパが存在できなかったために当時の韓国産の自動車は日本国内では受け入れられなかった。

(秀)