第1051話 ■薀蓄とトリビア

 薀蓄(うんちく)って、ちょっと鼻についた感じがする。数年前まであまり秋葉原のパソコンショップで女性の姿を見ることが少なかったが、そんなとき目にする女性の横には男がいて、その女性が買おうとしているパソコンの品定めをしてあげているのだろうが、何か薀蓄めいたものを盛んに女性に語っている。「俺ってこんなに詳しいんだぜ」という雰囲気をプンプンさせながら。案の定、女性はそんなこと一切分からない。店員と難しそうな話を交わせることで格好つけているつもりなのだろうが、そんな客が最も店員に嫌われていたりする。

 食事をしながら、「う~ん、このワインは…」なんてやられたら興醒めする。本人にそのつもりがあろうとなかろうと、受け取る側に「ひけらかしている」と感じられれば嫌悪感を与えてしまう。あるときは尊敬を与えるものがために、薀蓄の使い方、そのタイミングは難しい。蛇足ながら、その酒の席での薀蓄が、「ねえ、これってコラムのネタになる?」と聞かれるときがある。ほとんどの場合はノーである。そんな他人からの受け売りで薀蓄や雑学を書き記す類のコラムではないからだ。また、「そんなこと言われたら書くもんか!」という意地が働く。

 最近、薀蓄とトリビアの境が曖昧になってきた。「トリビアの泉」の番組のせいだが、あの番組は「薀蓄の泉」ではない。扱っているのはトリビア、すなわち、つまらない無駄な知識でなくてはならない。以前の深夜の時間帯ではその言葉どおり、つまらないことを披露しあうのが面白かった。ところが最近、ゴールデンタイムに進出してから、視聴者や投稿者の枠が広がったことで本来のトリビアが侵されている。明らかに薀蓄を語りだす投稿者が現れた。スタッフよ原点に返れ!。そんな薀蓄ネタは迷わずボツにせよ。「つまらねー」と言いながらも、ツボにはまって笑える話を楽しむのがこの番組の正しいスタイルだったはず。

 ところで、「トリビアの泉」に出てくるネタに、私が知っているものが結構出てくる。確かにそんなことを知っていて何かの役に立った覚えはない。だから、トリビアなのだろう。中には本当につまらなさ過ぎて、「そんなこと、投稿するほどのことかなあ?」と思うときもある。結局のところ、薀蓄であれ、トリビアであれ、知っているということには何のオリジナリティもない。「発見」なわけではなく、知っている人(確かにそれが少ないほど貴重ではあろうが)の一人というだけでしかあり得ないからだ。まあ、薀蓄やらトリビアやらの知識を披露する上でのパフォーマンスについてはオリジナリティを認めよう。

 インターネットでいろいろと情報が検索できる時代にあっては、「知っていること」はそれほど重要ではないように思える。「小便少女がある」と、存在の事実を知っていることよりも「私が小便少女を作った」というのがオリジナリティがあり、何倍も偉い。

(秀)