第1789話 ■「芝浜」のリアリティ

 さて本日は落語の「芝浜」について。この「芝浜」、最後のクライマックスシーンが大晦日の夜、丁度除夜の鐘が聞こえる頃合いとあって、年末の寄席や落語会でよく掛かる。落語界の「第九」みたいな作品だ。本噺は三遊亭圓朝師匠が「酔っ払い・芝の浜・財布」という3つのお題を客からもらってこしらえた三題噺と言われている。改めて私が言うまでもないが、圓朝師匠は天才だ。ついでに「文七元結」も師の作品。これまたどうも楽しませてくれてありがとう。

 その天才にものを言うのは誠におこがましいが、あえて言うとすれば、この噺、「リアリティがない」と私は思う。芝浜で50両(演者によって額が異なる場合がある)入りの財布を拾うところが変だとか、実際に財布を拾ったことを「夢だ」と言いくるめられるところがおかしいと言うつもりはない。そもそも落語なのだから、それはフィクションとして許容されるもので、そこまで否定してしまっては、落語を楽しむことなんて、この作品に限らず、全般的な否定になってしまうから、そんな気はもちろんない。

 私が変だと思うのは、財布を拾って持ち帰った勝五郎(一部では、熊五郎)が家に帰り着いてからの様子である。まず、「誰もついてきていないか?」と女房に言って、戸締りをさせた後、「お前今朝一刻時間を間違えて起こしやがったなあ」と言う。それにもやや違和感があるが、そこまではとりあえず許そう。50両もの金が入った財布を拾ってきたのである。この時点ではまだ金額は確認していないが、相当の金額が入っていることだけは分かっている。だから「金だ、金だ、財布(せーふ)拾ったんだ」とまず言うのが普通ではなかろうか?

 それなのに勝五郎は一刻早く起こされたために、「問屋がまだ開いていなかった」、「芝の浜へ出て日の出を見た」、「眠くなったので海の水で顔を洗った」と状況を説明してからようやく財布を拾ったことを女房に話し始める。大金を拾ったのである。そこでまず自分の家に帰ろうと思ったのは正しい。朝早くであるため、ほとんど人と会うことはなかっただろうが、道中ドキドキしたに違いない。息が切れた状態で、家にたどり着いたと想像するのが普通ではなかろうか。それなのに、ほとんどの演者はその感じを出さずに、時間を間違えて起こされたことや財布を拾うに至った状況を先に語ってしまっている。

 頼む。誰かもっとリアリティのある「芝浜」を演じてくれ(ひょっとしたら、そういうアレンジでやっている人がいるかな?)。うまくいけば、三代目桂三木助師を超えた芝浜語りになれるかもしれないのに。ただ、あまり狙いすぎて、「また夢になるといけない」。

(秀)