第1841話 ■運命論にご用心

 「それは運命です」と言われて納得できるのなら、それ以上に楽なことはない。以前は私もある種の運命論者だった。例えばデパートでの中古カメラ市に行って、欲しいものが見つかった。ただ、それを買うかどうか即決するには悩ましい。中古品は基本的に一点もの。他のブースを見るともっと他に欲しいものが見つかるかもしれない。気ままに欲しいものを好きなだけ買えるようになりたいもんだ。

 とりあえず、やり過ごして、他のブースも回り、そしてまた元のところに戻ってきた。自分が欲しかったモノが幸いにも売れずに残っていた。「これは自分が買うために売れずに残っていたんだ!」と思って、ようやく買い求めることにした。こんな話をある人に話したら、「意外に、運命論者だね」と言われた。そんな気はなかったはずだが、確かに言われるように、運命論に頼っていたのは間違いない。それ以来、私はこの行動パターンを改めることにした。

 私が運命論を批判する理由は、全ての責任を自分の外部に置き、あやふやにしてしまうことだ。彼女に振られて、それを運命だと思ってしまったら、たぶん同じことを何度も繰り返すことだろう。結果には必ず原因がある。この原因を分析し、場合によっては学習しないといけない。良い事も悪い事も、運命で片付けてしまっていては、自主性のない人生を送ることにもなりかねない。

 運命論は誤って暴走する場合がある。例えば、かつて好きだった人と、独身同士で再会したとしよう。これを運命だと感じてしまうと、好きという感情以上に運命なのだからとひたすら突き進む。運命の方のウェイトが大きくなる。その思いが叶うかどうかは分からないが、その結果もきっと、運命という言葉で片付けられることだろう。

 自分をはじめ、人間の手が及ばない部分については、運命と言わざるを得ない場合があるかもしれない。ただ、自然災害でも科学的な根拠はあるはず。やすやすと運命論で片付けるわけにはいかない。唯一、自分が最期の時、「ああ、運命だなあ」と思うかもしれないが、それ以降の学習や分析などないから、そのときは許せるかな?!。

(秀)