第608話 ■戦闘開始

 「戦闘(戦争)開始、みなみな開始ー」(突撃ラッパのメロディで)。何とも空恐ろしいが、小さい頃こんな歌で始まる遊びで遊んでいたようだ。雪合戦のときなどはそうだ。しかし、雪などあまり降らないところで育った。にも関わらず、この歌詞とメロディは覚えている。果たしてどんな遊びだったのか?。分からない怖さもある。

 日曜の深夜のテレビ番組で「日本時間の明日(8日)未明、テロに対する報復攻撃を米国が行うと、アフガニスタンの北部同盟が伝えました(細かな言い回しは失念)」と報じた。いつもなら、「こんな計画が洩れるはずはない」と思っているものの、このときは不思議と「いよいよか」と疑うことをしなかった。その通り、翌朝は「戦争始まったよ」という声で起こされた。もはや驚くことはない。

 迷惑なのはパキスタンだろう、隣でドンパチ始まって。この迷惑ぶりや反米デモの様子を見る限り、米国は過去にイスラム圏の人々に相当迷惑を掛けた(こんな生やさしい表現ではすまないだろが)事実がありそうだ。単にテロとその報復という構図ではなく、思想・宗教を引きずった背景はもっと複雑なはず。その辺が日本人にはなかなか理解しづらい。頭で理解できても、おそらく実感はできないだろう。

 賛否両論が渦巻く中、米国内では94%もの人々が今回の空爆を支持している。本来なら平和裏に解決したいと望むはず。それができるものなら。しかし、テロリスト相手ではそうはいかない。法治国家であれば「やられたら、やり返す」ということは認められていないが、それはいずれ司直などによって、その相手に制裁が与えられることを前提にして、はじめて成り立つ。しかし今回のテロの例はどうだろうか?。報復しなければ、やられたまんまである。「報復反対」を唱える人も他人事だからそう言っていられるわけで、親兄弟、ましては自分の子供が犠牲になっても、「平和的解決」などと言っていられるのか?。決して私は好戦家ではないし、むしろその逆であるが。

 「話し合いで解決」や「孤立させ、政治的な解決」といった綺麗ごとではなく、「報復に巻き込まれるのが怖いから、反対!」と、言うのなら非常に分かりやすい。

(秀)